お知らせ

ボス猿の死

むかしから、猿は人間にくらべて頭の毛が 三本足りないそうです。かしこいようでもどこか抜けているからです。これからお話するのは、むしろ、人間より毛が三本多い一ぴきのボスの物語です。

深い山の奥に猿の群れがすんでいました。木から木へとび移り、木の実をとっては食べ、とても平和にくらしています。なかでもいちばん高い木の上には一ぴきのボス猿がいて、仲間たちを温かく見守っています。 慈悲深くて知恵も勇気もあるため、仲間たちから慕われていました。いまも、いつものように高い 木の上から、あたりを見まわしながら仲間たちの安全を見守っています。

そのときです、はるか遠くのほうから「助けてくれえ」と救いを呼ぶ声がかすかに聞こえてきました。「はてな?」と耳をかしげ ると、それは深い崖の底から聞こえてくるようです。さすがに身軽なボス猿でも、おりるのはとても危いところです。

ボス猿は迷いました。しかし、慈悲深いポスはとても聞きすてることなどできません。身の危険をかえりみず、木から岩へ、岩から木へと、たくみにとび移りながら、深い谷底を 目ざしておりていきました。そのとき残して きた仲間たちの顔が、とつぜん頭をよこぎり ました。やっと、底におりたったボス猿は、 傷だらけで弱っている男を見つけました。

「さあ、もう大丈夫ですよ。元気をだしてください。……すこしは歩けますか」

と、たずねながら崖の上を見あげました。のぼるときは二人です。どうしてのぼろうかと思案にくれました。

「さあさあ、私の肩にしっかりとつかまっ てください。いいですか……」

と、男を背負ったボス猿は、あたりを見わたしてケモノ道をみつけ決心すると、ゆっくりゆっくりとのぼりはじめました。

草の根をつかみ、岩の角に手をかけ、足場をもとめ、一歩、一歩、息をはずませながら、ともかくのぼっていきます。気が遠くなるよ うな思いです。

その頃、ボス猿のいなくなった山では、年老いたから幼い猿までが、あちらこちらで 肩をよせあいながら不安げによりそっていま す。ボス猿がいなくなったので、とても心配しているのです。あたりは夕やみがせまり、だれひとり棲み家に帰ろうとしません。 年老いたが、いつもボス猿がのぼっている大きな木の上を見あげました。お月さまも心配そうにボンヤリとして、顔を雲のかげにはんぶんかくしています。

お日さまが、すっかり西の彼方に落ちたこ ろ、傷だらけになったボスは、やっとのことで頂上にたどりつきました。

「この道をいけば里へおりることができま す。これからは決して危ないところへは足をふみいれないように……」

と、それだけいうと疲れ果てたからだを木陰によせて、あっという間に眠りこんでしま いました。

助けられた男は眠っているボス猿に、「ありがとう」と声をかけ、お礼をいって歩きだそうとしましたが、数日、なにも食べていないので、目がまわり足がふらついて、へなへなとすわりこんでしまいました。これではとても里にたどりつくどころか、飢えて死んでしまいます。「ああ、せっかく助けてもらったのに」と途方にくれてしまいました。

そのときです。なにやらえたいのしれない思いが、心の底からつきあげてきました。

「なんだろう?」とその心のなかをみつめて思わずがく然としました。それは、とても恐ろしく、自分でも思いもかけないとんでもない心がおこってきたのです。 それは、あのボス猿の肉を……です。なんどもなんども首をふり、つきあげてくるその心を打ち消そうとしましたが、もうどうにもなりませ んでした。

はっと気がついたとき、ボス猿は頭から血を流し、うつろな目をして男をみつめていま す。慈悲深いボス猿は男を憎む気もちも、怒 心もさらさらなく、そのような人間を哀れ むように、悲しそうに、そして静かに目を閉じたのでした。 人間の心を失った男は、ただ ぼう然として立っています。お月さまはそっ 雲の影に身をかくしました。

その後のお話―心を失った男の行方はいまもわかりません。 悲しみをのりこえたお山の猿たちは、いつものように、木から木へと び移りながら、木の実をとっては食べ、みんな 仲よくくらしています。いちばん高い木の上には、若くて元気な新しいボス猿が、仲間た ちの安全を見守っています。