お知らせ

熊とサソリと樵人(きこり)

2023.06.15

 ヒマラヤ山脈のふもとに一人の貧しい男がいました。まいにち山に入って樹を切り、薪にして街へ売り歩き、わずかばかりの金と替えてほそぼそと暮らしていました。

 あるとき、いつものように縄と斧をもって山に入りました。夢中になって樹を切り枝を落していると、とつぜん大きなサソリがゴソゴソとやってきました。それをみてびっくりした樵人は「ひャーッ」と叫ぶなり、縄も斧もそこに捨てたまま走りだし、大きな樹をみつけてよじのぼりました。

「やれやれ、これで助かったわい」

と大きく息を吐き胸をなでおろしました。やがて腕が疲れてきました。そこで、枝をもとめて上を向いたとき「あっ」とおどろき、顔から血の気がスーッと引いていきました。すぐ上の枝のしげったところから、一匹の熊が樵人の方をジーッとみています。

 登れば熊に喰われるし、下りればサソリに刺され殺されてしまいます。 熊はだんだんと樵人に近づいてきました。腕はしびれて頭のなかはまっ白になり、思わず樹から手をはなし気を失ってしまいました。

 どのくらいだったのか、気がつくと誰かに抱かれています。「ああ…… 助かったのだ」と思ってよく見ると、なんと抱いているのは熊ではありませんか。「 あっ」と叫んだとたん、また気を失いそうになりました。 自分を恐れているということに 気づいた熊は、

「恐がることはない、おまえを助けてやったんだから安心しろ」

と、樹の枝の安全なところへ坐らせました。

 その樹の下では、久しぶりに人間を見つけてうまい肉が喰えると思ったサソリが、いまにも熊に追われて下りてくるだろうと待っていました。でもいつまでたっても下りてきません。どうしたのだろうと見あげると、熊にたすけられているではありませんか。うむー、してやられたのかと残念に思いました。

「おーい熊君、その男は恩知らずなんだから、助けるのはよしたほうがいいよ。あとで君はその男のためにわざわいをうけることになるから……さあ樹の上から投げておくれ、おれが料理するから」

とサソリはいいました。 熊は、
「君のいうように、この男がほんとうに恩知らずであっても、救いを求めているものをみすみす君に食わすわけにはいかないよ」
「おお、そうかいそうかい。 親切なことだ。とにかくおれはその男を喰うまでは、ここを動かないぞ」
と、サソリは空腹をこらえながら、辛抱強くまちました。

 

 やがて日は西に傾きあたりは薄暗くなってきました。樹上では、熊が樵人にむかって、

「おれも少し疲れたからひと眠りしようと思うが、その間おまえはおれの番をしていてくれ」

とたのみ、他人のそばでグーグーといびきをかいて眠ってしまいました。樹の下で熊のいびきを聞いたサソリはこのときとばかり、

 

「おーい樵人、お前はいつまでの樹の上にいるつもりだ。熊が眠っているようだから、そこから熊を突き落せ。 お前の代わりに熊を食べておれは帰るから、お前もおれに殺されずに家に帰ることができるんだぞ」

と、樵人をそそのかしました。 樵人は「なるほど、いつまでもここにいるわけにもいかないのだ。おれを助けてくれた熊には悪いが、 サソリのいうように、ここは自分の代わりに突き落して身の安全をはかるほうが、 いまどきの利口なやり方だ」と思い、よく眠っている熊を樹から突き落してしまいました。

 熊は、はっと目をさまし口の中でなにやら叫びましたが、そのときは大地にたたきつけられ、樵人の身代わりにサソリのために喰い殺されてしまいました。腹一杯になったサソリは、樹の上の樵人には目もくれず、さっさどこかへ去っていきました。

 

 日はすっかり西に落ちて暗くなり、風がでてきました。樵人は自分の代わりに死んだ熊の姿が目にちらついて、 思わずブルブルと身ぶるいをして暗くなった山道を歩きはじめました。ところが、なぜか足がガクガクとして、なかなか前にすすみません。風はだんだんと強くなりヒュー ヒューと鳴きはじめました。熊が樹から落ちるとき、なにやら叫んだ声のような気がします。そう思うと樵人はまるで気が狂ったように走りだしました。あたりはまっ暗です。うしろから風の鳴き声が追ってきます。

そのときです。

「わあーっ……」

と叫び声を残して、樵人は深い深い崖の下へ落ちていきました。いつのまにか風はやんで、なにもかも闇の中へ沈んでいきました。