お知らせ

鹿の目に涙

 むかしむかし、インドの国のガンジス川という大きな心のほとりに、美しい九つの色の毛と、雪のように白いツノをもった一匹の鹿がすんでいました。

 ある日、いつものように、鹿が木かげで昼ねをしていると、どこからともなく聞こえてくる呼び声に目をさまされました。

「たすけてくれえ!だれかぁ!」

 鹿があたりを見まわすと、川上の方から、おぼれながら流されてくる一人の男がありました。
 鹿は、われをわすれて川の中にとびこみ、むちゅうになって、おぼれた男のそばまで泳いでいきました。

「なにもこわがることはありません。わたしの背にまたがって、両方のツノをしっかりつかみなさい」

 鹿は、背中を男にむけながら、こう言いました。そして、やっとの思いで岸にたどりつきました。男は、命が助かったうれしさに、鹿のまわりを三べんまわって、頭を地にこすりつけてお礼をいいました。

「おかげで命びろいをしました。どうかご恩がえしに、わたしをあなたの召使いにしてください。どんなご用でもいたします」

「いいえ、そんな心配はしないでください。これでお別れしましょう。でも、どうしても恩がえしをしたいとおっしやるなら、わたしが、ここに住んでいることは、だれにも言わないと約束してください」

「わかりました。あなたのことは、どんなことがあっても、けっしてだれにも話したりはしません。どうかご安心ください」
 男は、こう誓って、なんどもお礼をいいながら立ち去っていきました。


 その頃、王宮ではこの国の王さまの夫人が、九色の鹿の夢をみて、その美しい毛皮とツノがほしくてたまらなくなりました。そして、あまりに思いつめたために、病気になって、寝こんでしまいました。王さまが心配して「どうしたのか?」とたずねると、夫人はあまえて、夢でみた鹿の話をしました。

「どうか、わたしのために、その美しい九 色の毛と白いツノをもつ鹿をさがしてください。もし、さがしてくださらなければ、わたしは悲しみのあまり死んでしまいます」

 なんとわがままな夫人でしょう。ところが、気のいい王さまは、そのたのみをここよくひきうけると、さっそく国中におふれをだしました。

「九色の毛の鹿をとらえた者には、ほうびとして、銀の鉢に金のつぶを山もりにしたものをあたえる」

 鹿をたすけた男は、このおふれを聞くなり、 たすけてもらった恩をたちまちわすれて、“運がむいてきたぞ、 あの鹿のいどころをしらせて、ほうびをもらおう”とほくほくして、役人にさっそく申し出ました。

 男は、王さまのまえにすすみ出て、九色の鹿のことを話したので、王さまはたいへんよろこびました。

「おまえが、ほんとうに、その鹿をとらえたら、 やくそくどおりほうび をとらせる」

「かならずとらえてごらんにいれます。この鹿は、ふしぎな力をもっているので、おおぜいの兵隊をかしてください」

 王さまは、男ののぞみどおり兵隊を貸しあたえたばかりでなく、みずからもその先頭にたって、鹿狩りに出発しました。

 

 鹿はそんなことはしらず、ガンジス川のそばで、いつものように昼寝をたのしんでいました。物おとにふと気がついて、あたりのようすをうかがうと、もうすでに兵隊たちに、すっかりとり囲まれてしまっていました。

 とっさの間に死をかくごした鹿は、ゆっくり王さまの前に進んでいきました。 兵隊たちは、いっせいに弓に矢をつがえて、鹿をうちころそうとかまえました。王さまは、それを止めて言いました。

「まぁ、まて、このはふつうの鹿ではなさそうだ。あるいは神さまかもしれない」

 鹿は、王さまのまえへすすみ、しずかに言いました。

「わたしをころすことは、しばらくおまちください。 わたしは、あなたの国の人に恩をほどこしたことがございます」

「どういう恩なのだ?」

「はい、わたしは、その人の命をすくってあげたのです。王さまは、わたしがここ に住んでいることを、だれからおききになりましたか?」

「あそこにいる男からだ」

と、王さまは、案内の男を指さしました。 鹿は、首をあげてじっとその男をみると、はらはらと涙をながしました。

「王さま、あの人は、先日この川でおぼれて、もうすこしで死ぬところでした。 わたしは、自分のきけんもかえりみず、あの人を川から助け出しました。あの人は、その恩に感謝し、わたしの召使いになろうとまで言いました。しかし、わたしはそれを断って、わたしの居所をぜったいにだれにも知らせないでくれ、と約束してもらったのです。人間というものは、なんて不実なものでしょう」

 王さまは、鹿の目の涙をみて、心から恥じて言いました。

「わたしは、国王として、じつにはずかしい。この男をきびしくいましめるとともに、だれにも、けっしておまえをころすようなことはさせないと約束する」

 

 それからというものは、国中の鹿は群れをなして、 九色の鹿のところにあつまり、田畑をあらさず、草をたべて水をのんで仲よく暮らしました。 雨風は自然のめぐみとなり、米や麦、あわ、きび、豆などが豊かにみのり、わるい病気はなくなって、いろいろな災害もおこらず、ますます平和に、楽しいよろこびの世になっていったということです。