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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 在家という信心/第6回 拝みあう世界をめざして
泰永二郎会長の言葉
在家という信心
第6回 拝みあう世界をめざして
浄風会がその設立からの理念にしてきた「在家信仰」とは、ひとりひとりのご信者が、出家僧侶に頼ることなく、俗世のなかで生きることのなかにこそ修行がある、ということです。
この在家信仰のあり方は、法華経に登場する一人の菩薩に由来を求めることができます。その名を常不軽菩薩といい、法華経の実践修行の理想像として表されています(略して「不軽菩薩」という場合が多い)。そのあり方から在家信仰の意味を考え、さらにその菩薩のモデルを通して、現代の私たちはどのように生きたらよいのかをうかがいました。
●不軽菩薩、信念を貫く人
―― 今回は今年のテーマである「在家信仰」の連載のまとめとして、法華経の教えのなかにでてくる不軽菩薩についてお話をうかがいたいと思います。この菩薩は、過去世の法華修行の実践者として、法華経常不軽菩薩品第二十に登場するわけですが、現代社会の中で信仰をたもつ私たちのひとつの理想像だと思います。不軽菩薩に、在家信仰の原点をみることができるのではないでしょうか。
泰永 まおっしゃるとおりで、私たち信仰者にとって、この不軽菩薩の話はたいへん示唆に富んでいます。まず、不軽菩薩がどういう菩薩なのか、法華経に説かれていることを意訳して紹介しておきましょう。
    昔、常不軽という名の菩薩がいました。その名前には理由がありました。この菩薩は経典をまったく読まず、およそ人を見れば合掌礼拝してこう言うばかりでした。
「私はあなたを深く敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたはやがて仏道を修行して仏になられるのですから」
経文も読まない旅の修行者に「仏になる」と言われても喜ぶ人はいません。むしろ、多くの人がバカにされたと思い、かえって修行者に対し、罵り、杖で打ち、石を投げつけたのです。しかし、この菩薩は少しも腹を立てることなく、遠くに退いて「それでも、あなたは尊い…」とくり返すのでした。それで人々は、かの修行者のことを「常不軽」と呼んだのです、と。
    この不軽菩薩は、菩薩というからには仏を目指す大乗の修行者です。その菩薩が、ただ一句の経文も読まず、修行としてしていたことといえば、会う人ごとに合掌して「あなたは仏に成れる」と拝んだだけというのです。
仏教では、人が仏に成ったとか成れるとか言えるのは、仏の専権事項というのが常識でした。ところが、それを一介の修行者が口にしたわけです。言われた方は「なにを、いい加減なことを…」と思うのは当然で、不軽菩薩としては罵倒されたり、石を投げられたりすることも予想の範囲だったと思われます。しかしそれでも、この菩薩は言い続けた。ここにまず第一の示唆があると思います。
それは、信仰というのは信念を貫いて、主体的にどこまでも行動し続けることが大切だということです。不軽菩薩は、自分の行動が必ず宗教的な迫害を引き起こすと分かっていた。分かっていながら、それでも行動し続けた。人々を拝み続けたのです。
ひるがえって、現代に生きる私たち自身のことを思うと、信念を貫いて主体的に行動し続けるということは、なかなか容易なことではありません。様々な障害に出会うと、つい信念を曲げてしまう。あるいは、苦しい現実から逃げ出したくなってしまう。
ところが、不軽菩薩はどこまでも信念を貫いた。だからといって、無鉄砲に突っ張ったわけではありません。暴力を受ければ、その暴力が届かない所まで逃げて、そのうえで言うべきことを言い続けた。
法華経の内容について好き嫌いを言うのはどうかと思いますが、ここのところは実に人間的で、私は好きですね。
●反発心が仏道への入り口
―― 不軽菩薩がした「ただひたすら拝む」ことは、特別な修行ではありません。その気になれば誰にでもできることですね。
泰永 そうです。ここにも実は大事な教えが込められています。さきほどお話しましたが、不軽菩薩は人に会うと「私はあなたを深く敬います…」と言って拝みました。これがこの菩薩のただ一つの修行だったのです。これだけなら特別な知恵も能力も不要です。その気にさえなれば、だれにもできる。そういう易修易行をして、この菩薩は仏になったと説かれているのです。
ところで日蓮聖人は、経文を読んだり悟りを開こうとしたり、そういう難しい修行を一切廃して、だれもができる易しい修行、すなわち南無妙法蓮華経の御題目の口唱こそが人を仏に導く修行であると定められました。その根拠の一つが、実はこの不軽菩薩の礼拝行にあったのです。それについて、こうおっしゃっています。
「彼の二十四字と此の五字と、其の語は殊なりと雖も其の意は之れ同じ」  (顕仏未来記)
「彼の二十四字」とは不軽菩薩の「敬います…」の言葉を指します。経文に漢字二十四文字で表されているからです。「此の五字」とは、もちろん妙法蓮華経の御題目のことです。
不軽菩薩は二十四字の言葉を投げかけて仏になった。末法といわれる今日では、不軽菩薩の二十四字はすなわち御題目のことである、と。
では、不軽菩薩が人を拝むことに、いったいどんな意味が込められているのかというと、こちらが拝むことで、相手に宗教心(仏の心)を呼び起こす、そのことが重要なのです。
そうはいっても、不軽菩薩に拝まれた相手はかえって迫害を加えたのですから、宗教心が起こったとはとても思えませんね。しかし、彼等の反発心も宗教心の第一歩ということができるのです。つまり、マイナスの宗教心。ここが大事なところで、すべての人の仏道への入り口は、このマイナスの宗教心からだというのです。
人間の心の深いところを覗いてみると、一番奥に仏の心(仏性)がある。これはだれにもあります。ただし活動はしていません。なぜかというと、その仏の心の外側を固い殻が覆っているからです。ちょうど胡桃の殻のように、です。この殻は人間の煩悩(迷い・欲望)の根源ともいうべきもので、元品の無明と呼ばれています。だれもが公平に仏の心をもっていながら、その殻のためにほとんど活動できないのです。
ところが、拝むという行為によって、その殻が壊れていくわけです。どういうことかというと、拝むという行為は、つまり相手の仏の心を拝んでいるわけで、拝まれた仏心は同調し活動しようとする。ところが固い殻がガードしているから思うようには動けない。反発するマイナスの宗教心というのは、殻の働きなんです。それでも、仏の心は動こうとする。ますます殻も活発になる。
そういうくり返しのなかで、少しづつ殻にひびが入っていき、やがて仏の心が表に出てくる。ただし、それが「一生のうちに…」とは限りません。何度も生死をくり返したその先かもしれませんが、いつかは殻が破れて仏心が活躍する。これはまちがいありません。その時に向かって前進が始まったということです。
不軽菩薩が人を拝んだということには、そういう意味があるのです。
●拝むことが折伏の基本
―― 仏教についてなんの知識も経験もない人に教えを伝えていくことは、現代社会でもたいへん難しいことです。不軽菩薩のように石を投げつけられるというようなことはないにしても、反発されることはしばしばです。でも、その反発が仏道の入り口だという、そこのところをもう少し説明してください。
泰永 反発されることが仏道の入り口だといいましたが、このような布教の仕方を逆化(ぎゃっけ)といいます。
仏教は、一切の衆生を一人残らず救おうという仏の大慈悲の具現として説かれました。しかし、一切衆生といっても、仏教の内に身を置く人ばかりではありません。いや、むしろ仏教の外にいる人の方がはるかに多い。それらの人々をどうやって仏教の内に取り込むか、その仕組みが確立していなければ、一切衆生を救うというのは“画に描いた餅”です。
常不軽菩薩品に説かれた逆化こそ、まさしく仏教の救済活動の最先端の仕組みなのです。
日蓮聖人は、その仕組みをさらに一歩進めて、末法といわれる現代は、南無妙法蓮華経の御題目をもって心奥の仏心に働きかけることこそ大切だ、と説かれたのです。前出の「彼の二十四字は、此の五字」といわれたところです。煩悩の固い殻を破るのは御題目に限る、と。
このように、御題目によって相手の煩悩の殻を破っていくことを、折伏(しゃくぶく)といいます。
―― 「折伏」というと、いやがる人に対して無理矢理押し付けたり、洗脳していくというイメージが一般にはありますが……。
泰永 いいえ、本来の折伏とは、そのような反社会的なものではありません。
折伏とは、まず何といっても、信仰をもつ人ともたない人が同じ目線にたつことで成り立ちます。基本は、あくまでも相手の存在を全面的に認めることです。だからといって何も彼も相手に合わせればいいかというと、そうではありません。ただ相手の悩みに同情したり憐れんだりするだけでは何の解決にもなりません。正しい教えを基準にして、「ダメなものはダメ!」と相手の誤った思い込みや執着心を指摘して本道に軌道修正する。これが折伏です。不軽菩薩が相手を拝んだのと同じように、相手を拝む。あくまでもこれが折伏の基本です。
―― 不軽菩薩のことを思うと、法華経を弘めるためにはタフな精神が必要ということになるのでしょうか?
泰永 もちろん、揺るぎない信念は不可欠ですが、だからといって、それほど大変なことではありませんよ。不軽菩薩の礼拝行は、法華経の信者のひとつの理想像です。浄風会では、日ごろの身近なおつきあいのなかで教えを弘めていく、これが普通です。
浄風会で日常的に見られる風景としては、ご信者同士が会ったときは、掌を合わせて「ありがとうございます」と挨拶をします。お互いの心の中にある仏心を拝み合うわけです。このとき、心はさまざまな煩悩から解き放たれ、とても清々しい気持ちになりますね。これこそ、まさに礼拝行の実践です。
お互いに尊重しあい認めあうことができれば、そのときにはたぶん、つまらない煩悩から解放されているんだと思います。そういう体験は、どなたにも少なからずあると思います。それをもっと高め、あるいは広げていった先に、最高の大慈悲心すなわち仏の心があるわけで、その仏の心を開発するために法華経の御題目の信仰があるのです。
法華経の信仰、御題目の信仰は、だれでもできる信仰です。とてもシンプルな信仰です。
難行苦行をしなければ悟りの境地に至ることはできない、という仏教のイメージが一般にはあるかもしれません。しかしそれは、本来の仏教のありかたとは関係ありません。
本当の宗教者とは、誰にでもできることを日常の中で愚直にやり続ける人です。
口伝や一子相伝、というような一部の人間にだけ真髄が伝えられるような仏教では、すべての人を救うことはできません。あるいは、常人にできない修行をするからこそ尊い仏教者だ、などといわんばかりの言動で多くの人を惑わしている宗教者は詐欺師と同じです。
在家信仰とは、世俗の権威を頼まず、一部の特殊能力者に頼ることなく、ひとりひとりの信者が個々に自立して、主体的に法華経の教えを実践し、互いに磨きあう、まさに常不軽菩薩の礼拝行の実践に他ならないのです。
在家はきわめてオープンな、生活に即した信仰のスタイルなのです。
―― 本日はありがとうございました。
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