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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 在家という信心/第5回 社会の問題と向き合うことが修行
泰永二郎会長の言葉
在家という信心
第5回 社会の問題と向き合うことが修行
浄風会は、在家信者によって法華経の教えを信仰する在家教団です。信者は信仰者であると同時に生活者としての視線を持っています。
現代社会は、経済不況、家族や地域社会の崩壊、さらに宗教対立による戦争、というように、さまざまな矛盾に充ちています。そのような現実世界のなかで、教えを実践しようとすると、教えと現実との間の板挟みになりがちです。この葛藤は、信者にも教団にもあると思います。
在家信仰を胸に抱きながら、厳しい現実社会のなかで、信者として生きる意義と教団のあり方についてお話を伺いました。
●聖と俗の狭間で生きる在家信者
―― これまでは在家信者としての生き方を中心にお話を伺ってきましたが、今回は、宗教団体としての浄風会の社会的責任とその使命について伺いたいと思います。信者も教団も、現実と理想の狭間で葛藤を抱えているのではないでしょうか。
泰永 まず整理しなければならないのは、在家教団という組織の社会的責任と、信者のそれとは、分けて論じなければなりません。
まず信者の立場からお話しましょう。基本は、それぞれがどう生きるかという、個々の信者の問題です。そのとき、信者は法華経の教えと現実の社会生活をどう折り合いをつけるか、ということになります。信仰を何よりも優先して現実を生きることができれば、信者としてはこの上ない幸福だと思いますし、当然そこには現実との葛藤は起こりません。原理としてはそういえます。
ですが、だれもがそうすべきだとは、日蓮聖人の教えにはありません。浄風会は、信仰は「聖」で現実の社会生活は「俗」と、二つを別のものとして区別せず、聖は俗に通じ、俗は聖に通じる、そういう信仰生活をめざしています。もし、聖ばかりを優先させて俗を排除するようでは、信者個人としては正しいかもしれませんが、その人は社会生活の中では孤立してしまいます。それはつまり、教えそのものが、社会から孤立してしまうということです。それでは、社会の人々を救っていくという、法華経本来の使命は果たせません。純粋に理想の信仰を追い求める姿勢は大切ですが、それも社会生活を前提にしたうえでのことで、これを無視すると原理主義的な信仰となってしまいます。
―― 人間はどこまでも聖であり得ないし、ピュアなだけでは誰もついて行けない。人には五欲(色欲・飲食欲・財欲・睡眠欲・名誉欲)に代表される俗な欲望があります。この俗を否定しないのが、在家信仰ということですね。
泰永 そのとおりです。俗を嫌ったり否定しません。それでは人間としての生活が成り立ちません。法華経の教えは、俗なままで聖なる境地が得られるのです。これは大いなる逆説といえます。宗教行為そのものだけがピュアなのではない。俗なる人間が、聖なる信仰を持つことによって、俗も聖も何もかも、その人の人生すべてが聖になる。出家にはない概念です。
―― 在家信仰を知らない人には、仏教系教団に所属して、信仰生活をしている人には聖人君子のイメージがあります。
泰永 特別、聖人君子でいなくてもいいんですよ(笑)。普段は、普通のオヤジでいい。ラクもしたい。お酒も飲みたいでしょう。そういう普通の俗な人間が、信仰を根っ子にもつ生き方をする。そこに、知らず知らずのうちに聖なる生き方ができてくる。欲望が常軌を逸しなくなる。信仰があれば、俗世間の枠のなかで自然に収まる生き方をするようになります。
仏教の教えの一つに「小欲知足」というのがあります。あまり欲をかかないで、満足することを知れという意味です。ただし、だからといってがんばってそうするのではなく、在家信仰の中で自然にそうなる、それが法華経の教えなのです。
●宗教のもつ狂気をどう考えるか
―― 一般に信仰の一つの側面には狂気があるとされます。たとえば、お題目を一心不乱に唱えるという行為。これは信仰をもたない一般の人からみれば狂気と映るかもしれません。
信仰者として狂気をどうとらえたらいいのでしょうか。
泰永 どこまでを正気とするか。どこからを狂気とするか。その判断が問題ですね。正気と狂気の境界は、時代・文化や立場によって変遷する。それが俗世間ではないでしょうか。
人々を信仰によって救いたいという信念で布教に邁進する姿は、信仰をしていない人から見れば狂気と映るかもしれません。ですが、そういう意味では狂気のない宗教者はひとりとしておりません。ましてや宗祖・開祖といわれるような人たちの行動は、どれも常識では判断できません。
日蓮聖人も、現実の社会を、さまざまな苦難を乗りこえて変えようとされた。この意味で狂気といえるかもしれませんが、しかし、本物の宗教ならば、時代を超えてその教えは伝えられ、広められていくのです。
そう考えれば、浄風会の教えには決して危険な狂気はありませんが、あえて言えば、社会に受け入れられる「健全な狂気」でしょう。
●個人救済から他者救済へ
―― 多くの信者は、自分や家族の幸福を求めて入信すると思います。在家信仰は現実主義でもあります。個人の幸福を求める姿勢が、他者を救済する信仰になるためには何が必要でしょうか。
泰永 法華経の教えを実践していくと、個人の幸福を求める気持ちから、周囲や社会に目線が拡がっていきます。教団はその一歩を踏み出すお手伝いをする役割があります。個人の現世利益からの脱皮ですね。
入信にいたる動機を、昔は一口に貧・病・争といいましたが、何にしてもその動機は個人的なものです。しかし、教えの本質はそれに留まらない。教えを学び実践するうちに、その深さ大きさに気づき成長していく。それが在家信者の喜びになっていくのです。
既成仏教のように、出家した僧侶の指示を仰げばよい、ということではありません。僧侶と檀家、という分業を否定し、入信から最後臨終まで、すべてを自分の信仰として主体的に実践していくのが在家信者のありかたです。信者は日々実践しながら、周囲に影響を与えていく布教者に成長していくのです。浄風会の教団運営を店にたとえれば、信者は最初は「お客さま」ですが、店の「商品」がいいので、やがて「店員」になっていく。そのとき本来の信仰が完結していくわけです。
●宗教と政治の関係が問われている
―― いま、宗教と政治の関係が政治問題に発展しています。小泉首相は八月一五日に靖国神社を参拝し、国内外で大きな問題に発展しました。憲法改正の動きもあります。宗教と政治の関係についてお考えをお聞かせ下さい。
泰永 浄風会が教団として政治と直接かかわることは絶対にありません。教団として、特定の政党支持はしませんし、将来、自前の政党をもつこともない、と断言しておきます。
信仰生活とは、一人ひとりの主体的な生き方のベースになるもの。その教えを堅持し、伝え弘めていくのが教団の使命。浄風会がなすべきことはこれだけです。宗教の使命とは、苦しんだり悩んでいる一人ひとりの個人を教えによって救うことです。この意味で宗教は絶対の世界です。
政治とは、現実に対する具体的な対応で、あくまでも相対の世界です。そこには多くの利害関係者との交渉、妥協が必要となります。現実への対応を追求する政治と、真理を追究する宗教とは、本来相容れない関係なのです。
ただ願うことは、政治をする人の心が、正しい信仰によって浄化されていくことです。
私が政治から距離を置く理由の一つは、政党の目的が政権奪取であるということです。ひとつの政党なり、ひとつの政治的主張によって社会を改革するという発想は、非現実的です。人々の心はそれぞれであるのですから。
むろん、信者が個人として政治活動をすることは自由ですし、かまいません。でも教団が政治に進出することは厳に慎むべきでしょう。
―― もし社会が一党独裁や軍国主義の動きになったときはどうでしょうか。
泰永 難しい問題ですね。戦前のような言論や宗教活動の統制は二度とあってはならない。宗教団体が不用意に政治に関与することは危険である、これが戦時体制を経験した浄風会の教訓です。政治は相対的なもので不変ではない。いつどんでん返しになるかわかりません。教団は、人間の尊厳を無視するような政治状況に関与してはならないのです。
もし、政治が宗教の自由を制限したり、法華経の理念から外れるような動きをしたときは、これに抗議をするのは言うまでもありません。
そのためにも、常に社会の動きに関心を持ち、宗教者の目線で社会を監視していかなければなりません。それが、現代における「立正安国」の実践であり、教団としての社会倫理です。オピニオン・リーダーとしての使命ですね。
また、信者の投票行動にも影響を与えてはならないと思います。教団が特定の政党や政策を支持する、と表明すれば、信者の投票に影響がでるでしょう。それは絶対に避けるべきです。これがあるべき政教分離の原則ではないでしょうか。
とくに慎重にならなければならないのは、教団の規模が大きくなったときです。入信者が増えれば、政治権力は教団を利用しようとするでしょう。私たちは、政治から一定の距離を置いた自由な立場で、宗教者としての発言をしていくことに専念すべきなのです。
●信仰生活が世界平和の礎
―― 二十一世紀のいま、冷戦構造は解体しましたが、イラク、アフガニスタン、そしてレバノンなどで戦争が激化するばかりです。世界平和のために教団として何をすべきでしょうか。
泰永 かならずしも、直接的に戦争に反対するという政治的行動をすることではありません。
宗教者の使命は、いかなるときも、命の尊さ大切さを、信仰生活の実践によって訴えることです。慈悲の心で、争いの根本の解決を促していく。その方法は、きわめて穏やかであり時間もかかるので、短期的にみると戦争の抑止力になっていないように見えるかもしれません。しかし、そうではないのです。遠回りのように思えても、戦争を引き起こす人間の浅ましい心を、仏の道に導くことが、私たちの平和運動のあり方です。
日々の生活の中で自分の信仰を高め、他者を救済し、それによって自分自身も救われ、その結果として社会が変わっていく。ここに在家信仰の社会性があります。これが法華経の修行なのです。
法華経には次のように説かれています。
   
「諸の所説の法、その義趣に随って皆実相と相違背せじ。
  もし俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」
(法師功徳品)
    教えによって人の心の根っ子が育つ。心の根っ子が育てば、教育・政治・経済などあらゆる社会生活は、自ずから法華経の理念に沿ったものになる、という意味です。
さらに信仰生活について、日蓮聖人はこうおっしゃっています。
   
「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか」
  (観心本尊鈔)
    空が晴れて陽が射すと、地上のあらゆるものが明るく照らされるように、法華経を実践し感得する者は、世の中のあらゆることに精通することになるであろう、と。
ここに在家信仰のありかたがズバリ示されているといえます。
―― 本日はありがとうございました。
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