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浄風会とは
浄風会は在家教団です―「在家」って、なに?
「在家」って、なに? 信仰のあり方/合掌・回向 目的と活動 お墓について
宗教は、人間の心に「生きる力」と「やすらぎ」をもたらします。
そして浄風会では、お題目(南無妙法蓮華経)を生きることの中心において、日常の生活の中で、誰でもできる信仰のあり方を示しています。
今日のような混迷と不安な時代にこそ、正しい信仰が必要です。それは政治活動や営利事業とはいっさい関係のない「純粋な宗教団体」によってはじめて実現する――浄風会ではそう考えています。
自分の心と向き合う
宗教の役割

人類が誕生して以来、物質的に最も豊かになり、科学技術が発達して生活が便利になったはずの現代なのに、どうして平和な世界が実現できないのでしょうか。

いまなお世界の各地で紛争やあつれきが続いています。先進国と発展途上国の間の経済格差もいっこうに縮まらず、病気や貧困で多くの人が苦しんでいます。また、二酸化炭素の問題に代表されるように、地球環境が破壊されています。さらに、人口、食料やエネルギ−の問題、高齢化社会、子供たちのいじめや教育、生命倫理・医療の問題などがあり、市場主義が当然の今日、経済・金融、特に不況や雇用問題はたいへん切実な問題です。

人と人とのつながり・人間関係も希薄なっていくなかで、どこか満たされない思い、ストレスによる心の病に悩まされる人が増えています。わたしたちが抱えている課題は、21世紀になってなお山積みのままです。経済体制を変えればよいのでしょうか。それとも政治の問題なのでしょうか。よく考えれば人間が生み出した問題は人間によって解決せねばなりません。

現代における宗教の役割とは、ここにあると思います。人間の内面を変えない限り、問題は根治しないのです。人間ひとりひとりが自分の心とまっすぐに向き合い、よりよい世界の実現に向かって心を高めながら生きていくためにお手伝いをする、それが浄風会の役割だと考えています。
でも、特定の宗教や教団には、ちょっと抵抗があるという方
浄風会は純粋な宗教団体です

あなたの不安は、よくわかります。

一般的には、宗教というと葬儀・法要だけの寺院仏教か、カルト的な新興宗教ばかりが目につきます。残念ながら、宗教とは名ばかりの教団が多いのも事実です。
だから、あなたが教団に対して不安を感じるのもやむをえないことだと思います。そして、多くの人たちが宗教嫌い、宗教アレルギーになっているのかもしれません。

もともと宗教には「洗脳」も「絶対的な服従」も必要ない――浄風会はそう考えています。なぜなら、このような手段は「人間性」を奪うものであり、それに対して本当の宗教は「人間性」を育てるものです。
また、選挙の票集めや霊感商法などは、自ら「純粋な宗教団体ではありません」と語っているようなことだと考えています。つまり、そういったことで世間を騒がせた一部の教団ばかりが宗教団体ではないということを知っていただきたいのです。

ほんとうの宗教は、人間の心に「生きる力」と「やすらぎ」をもたらします。わたしたちはそう考えています。そしてお題目(南無妙法蓮華経)を生きることの中心において、日常の生活の中で、誰でもできる信仰のあり方を実践しています。

わたしたち浄風会は「純粋な宗教団体」を護持し、創立以来今日まで、政治活動や営利事業を行っていません。
浄風会は「在家」の信仰者の団体です
「在家」という信仰のあり方

「在家」――それはあまりなじみのない言葉かもしれせん。
在家とは、ごくふつうの社会生活を営みながら信仰をもっている人のことです。
わたしたち浄風会は、ふつうの社会人としての日常生活をおくりながら、自分の心を高めていくために信仰をしている人の集まりです。

信仰することに特別の資格や条件は必要ありません。したがって浄風会には「お坊さん」(出家僧侶)はいません。
また、信仰は葬儀や法要など、特別の日だけにすればよいのではなく、日常生活の中にこそ求められるものです。

誰でも、いつでも、どこでもできる信仰のあり方が、ほんとうの信仰なのです。
すべての人を救うために仏さまがお説きになったのが仏教であり、その仏教の本来あるべき姿が「在家信仰」です。
現実の社会の中で喜んだり悲しんだり、悩んだり苦しんだりしながら、会員同士がそれぞれの体験や思いをともにし、お互いを磨きあう信仰のための団体、それが在家日蓮宗浄風会です。

したがって、あなたが浄風会に入会するのに特別な条件や、入会後に特殊な修行を要求されることはありません。
心のこもった葬儀にお坊さんは不要です
仏教本来の葬儀のあり方

仏教と聞いて、まず思い浮かぶのが「葬式」かもしれません。残念ながら、現代では仏教といえば葬式そのものが目的だと誤解されているのは事実です。

しかし、仏さまが説かれたことはそうではありません。仏教は本来「生」のための教えです。「生」の終着点に「死」があり、「死」を正しく見つめることは、「生」を主体的に受け止めることにつながります。そういう意味で、仏教は「死」と向き合ってきました。「死」は本来、世間一般の人々の思うような忌み嫌うものではありません。

わたしたち浄風会は、「死」をその人の「生」のひとつの決算・節目ととらえています。そして葬儀も、その延長線上に位置づけています。

わたしたちは、世間一般の葬儀のあり方に疑問を感じています。

たとえば、
故人を知らない僧侶が行なう、型どおりの読経。
故人・遺族の意思を無視して要求される法外な戒名料。
戒名料の金額によって決められる意味のない戒名。
……など。

自分の人生のしめくくり、その最後の大切な時間を世間体だけの、あるいは形式的なものにしてよいのでしょうか。

浄風会では、故人の主体性と生前の信仰をなによりも尊重して、参列者の心のこもった葬儀を営んでいます。故人が生涯心の拠りどころとして信仰をささげたお題目による供養こそが、最善のはなむけになると信じるからです。
そして、世間一般にいう戒名ではなく、故人の生前の生き方に即して「法名」があたえられます。もちろん、そのための特別な費用はかかりません。

これが仏教本来の葬儀のあり方なのです。
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在家日蓮宗浄風会
〒113-0022 東京都文京区千駄木5-19-5
TEL:(03)5814-3262 / FAX:(03)5814-3263 (受付時間/午前10時〜午後6時)
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