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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 法華経からみた教育論/第1回 「いのちの教育」を取り戻そう
泰永二郎会長の言葉
法華経からみた教育論
第1回 「いのちの教育」を取り戻そう
昨年の後半、いじめ自殺が日本の教育現場を揺るがしました。文部科学省に自殺予告の手紙が届き、全国の学校がその対応に追われるばかりか、いじめ自殺の報道による連鎖自殺も問題になりました。
大人も子どもも自信をなくしている。さらに、「いのち」を尊ぶ心情がどこかに消えてしまったようです。いまこそ、「いのち」の尊さを伝える教育が必要といえます。今月号から1年にわたって「いのちの教育」をテーマに、泰永会長にお話をうかがっていきます。
●教育の原点は、鞭だった!
―― 今年のインタビューの年間テーマは「いのちの教育」とさせていただきました。教育というと非常に幅広い範囲になりますので、特に「いのち」の教育に焦点をあてて考えていきます。
国内ではいじめや過労死・自殺、海外では戦禍。いのちが粗末にされている現実ばかり目につきます。
人としてのあり方が錯綜し、混乱していく世相のなかで、なぜ、いま現代人は命を粗末にしてしまうようになってしまったのか、そこからお話しをうかがいたいと思います。
泰永 教育は幅広く深いテーマですから、今日は総論的なお話から始めていきます。
まず、いまの日本の教育現場が混乱していることは間違いないでしょう。とくに若者の心の荒廃が心配です。
たとえば、路地裏や公園を歩いていて「誰か必ず、見てるゾ!」と書かれた防犯ステッカーをよく見かけます。私はあれを見ると不快感を覚えます。なぜならば、このキャッチコピーの奥に、他人が見ていなければ何をしても良いという考えが透けて見えるからです。そんな恥知らずな人間が増えてしまったことを情けなく思います。
「警察につかまるから悪いことをしない」という発想がある限り犯罪はなくなりません。現代の日本人は、人間としての最低限のモラルまでなくしてしまったようです。
「だれかが見ているから犯罪をするな」では、治安は一時的に良くなったとしても、人は自立し成長しません。昔の人はよくこういう言い方をしました。「お天道様が見ている」と。つまり、自分に恥じない生き方をしよう。自制心をもって生きていこう、ということです。
今日のようにモラルが低下してしまった一因に、教育機能の全体的な低下があると思います。
―― では、そもそも教育の目的とは何でしょうか。
泰永 端的にいえば、社会人として自立して生活を営むことができる、そういう人間を形成するための支援です。昔の人はこれを「躾る」と言いました。
いま「教育」という言葉を聞くと「学校教育」をイメージする人が多いと思いますが、それは教育全体の中のほんの一部の要素に過ぎません。
「人間教育」という大きな枠組みがあり、家庭教育、学校教育、職場教育、地域教育、宗教教育という様々な形の教育の場面がある、ということです。
昨年亡くなりましたが、漢字研究の第一人者だった白川静先生の著作を読んでいましたら、教育の「教」という文字の由来についてこう述べられていました。
古代中国では、子どもたちが一定年齢に達すると神聖な建物に集められ、氏族の長老たちから伝統や生活の規範が教え込まれた、というのです。「教」の文字の扁はそのことを表していますが、興味深いのは、右側の旁が手に鞭をもっている形だというのです。つまり、「教える」には強権を行使する意味があったのです。
いま、学校で先生が子どもたちを叱るときに手を挙げると、これは体罰だ、けしからんと批判されるのは、いたしかないといえます。しかし、体罰がけしからん、という考えは戦後の短い期間のことに過ぎないのです。誤解してほしくないのですが、体罰を肯定しているわけではありませんよ。ただ、教育の長い歴史をたどると、子どもに鞭を打ってでも、大人はルールをきちんと信念をもって教えていた。その根っ子の意味をあらためて考えるべきだということです。
●家庭教育をおざなりにした現代
―― 子どもは一定の方向に矯正しないと、その社会で生きられるように育たない。だから教育が始まったということですか?
泰永 その通りです。子どもはほうっておいては、まっとうな大人にはなれません。ただ本能のままに「したいから、する」「やりたくないから、やらない」というだけでは、社会生活は成り立ちません。だから教育が必要なのです。社会で生きる知恵もルールも知らないまま大きくなってしまったら、後で困るのは本人です。古代社会の大人たちは、子どもたちを自立させるためにも、その社会のためにも、鞭を振い共同体のルールを教えこんだのです。
人々は結束しないと共同体で生きることができません。そして、子どもには、もちろん現代よりも何年も早い自立が求められていた。現代とは別の意味で、教育に熱心だったといえるでしょう。
しかし、現代の教育は古代のようにシンプルではありません。核家族が当たり前になり、教育サービスの充実によって、学校教育の比重がより大きくなっています。その結果、「教育=学校教育」になってしまった。
教える大人は、大学の教育学部で育成されて教師という専門職にはなっても、子どもをなんとしても「一人前の大人」にしなければならない、という信念が希薄になっているように見えます。
古代社会から現代に至るまで、教育の根幹はやはり「家庭教育」です。家庭こそが人間社会のベースであることは変わりません。家庭では教えることができない知識中心の教育を学校が担当しているにすぎないのです。
家庭は、子どもの「生きる力」を育む。学校は「知識」を学ぶ場。この役割分担がいま、うまくいかなくなってきた。
―― 学校は家庭教育を補佐している役割であるというお話、なるほどと思います。
しかし、いまマスコミの報道や、学校に通う子どもをもっている親に話を聞くと、教育が学校という狭い場に押し込まれているだけでなく、親も学校に子どもの教育を全面的に押し付けているようにも見えますが?
泰永 まったくそうです。まことに残念ですが、現状を見る限り、そう言わざるを得ません。親が自分の子どもを教育する責任を放棄しているのです。子どもが自立できないことを、学校の責任にしてはいけません。
親には厳しい事を言うことになるかも知れませんが、子どもを育てることそれ自体が教育なのです。そういう意識がいまの若い親に欠けているのではないか、と心配しています。「教育」が「学校教育」とイコールになったことに疑問をもたない人が多数派になってしまっているわけですから。
親は学校に教育を任せきり。教師は文部科学省や教育委員会の指示に従うことで精一杯。子どもは受験のための知識だけで、大人になるための教育を受けることが少ないので、結局大人になりきれない。
●変貌する教育環境
―― 何をもって教育の成果があったと言えるのでしょうか。人間が自立しているかどうかを見るためには、モラルの問題を避けるわけにはいきません。冒頭で、犯罪に対する抑止キャンペーンの例がありましたが、子どもに対する痛ましい事件の報道に胸が詰まります。会長はこの半世紀の日本の教育をみて、どのように感じていらっしゃいますか。
泰永 50年前は、私も子どもでした(笑)。当時の感覚と、結婚を控える子どもがいる親になった今とでは、私自身、子どもに対する見方が変わっています。
「昔は良かった」「いまの若者はダメだ」というのは、昔から大人の決まり文句だと言います。ですが、この半世紀の子どもを取り巻く環境の変化は凄まじいばかりです。
まず、子どもの遊びが全く変わってしまった。街中で子どもたちが遊んでいる姿を見かけない。子どもたちが集団で遊ばなくなりました。肉体を使って遊ぶ場もない。いまの親は子どもたちに危険なことをさせないですよ。そして、受験に合格して、よりよい生活を送らなければならないというプレッシャーも大きい。
こういう環境になれば、親は受験教育に熱心になってしまう。結果として、教育熱心に偏った親が、子どもの健全な成長を歪めてしまうことになります。
―― 子どもたちは塾にいかされて帰宅が遅くなり、夜の電車のなかでパンを食べている風景が当たり前になりました。これでは、食事のバランスも悪いし、生活のリズムも崩れてしまいます。
泰永 いまの子どもたちは、早い時分から、勉強、そして携帯メールやゲームだけ。これでは体も心も健全に育ちません。“生”の体験が少ない。
子どもたちには「個と社会」、「自己と全体」との関係を何よりも学んでほしいと思います。それが人間教育の基本なのです。しかし、人間教育の場として、ふさわしい環境がいまたいへん作りにくくなっているのは事実です。
人間はひとりで生きていくことはできません。社会生活を通して人間は自立していく。このままでは、子どもを育てているのは、不完全な学校制度、そして、ケータイやゲームなどの情報機器ということになってしまう。家庭の役割が希薄になっています。
―― いまの家庭で気になるのは、父親の不在です。家族をめぐる事件報道を見ても、父親の存在が見えない家庭が多い印象があります。父親はどこに行ったのでしょうか。
泰永 極端に言うと、父親の役割は会社で働いて給料を稼ぐだけになってしまったのです。
どんなに仕事が忙しくても、子どもの相手をする時間はなんとしても作らなければなりません。そういう親子の関係のなかから、子どもは知らず知らずのうちに社会性を身につけていくのです。子どもに接することがなければ、会社でどれだけがんばって働いても、子どもは父親を尊敬できません。それどころか、家庭に父親はいないものとして理解してしまうでしょう。
おそらく多くの父親が、子どもへの教育をほとんど放棄していると思います。教育のことはすべて母親に任せるしかない。そうして、母親はますます教育熱心になっていくわけです。このままでは社会のルールが教えられないまま、多くの子どもたちが「半人前の大人」になってしまうでしょう。
―― この半世紀で、親が子を教育するということ自体が変わったということですか?
泰永 そうですね。子どもの方は、古代も、50年前もそれほど変化していない。しかし、この半世紀で、親のあり方も社会の流れも、大きく変わってしまいました。にもかかわらず、そういう認識があまりないように思えます。教育は今日明日という短い期間で考えるものではありません。10年20年という長い年月を経て、その結果が現れてくるものです。どうしても、対策が後手にまわりがちになるのは、ある程度しかたないのかもしれませんね。
●効率主義とエゴから教育を救う
―― 現代社会は経済効率を求める社会になっています。人を効率的に育てようという意識が、どこか働いていないでしょうか?そのせいか、多忙で生真面目な教師のうつ病が増えていると聞きます。これは効率を求める社会の歪みでは?
泰永 「ゆとり教育」が提唱されていますが、多忙による余裕のなさは、教育現場だけでなく、日本全体の問題でしょう。親にも余裕がなければ、十分な家庭教育はできない。だから人を傷つけても気づかない子どもが育ってしまう。他人を尊重するのは人間関係の基本なのに、それを学ぶ機会のない子ども、ひいては大人が増えています。
私は集合住宅に住んでいますが、深夜になっても子どもが騒いでいる家庭があります。やかましいことで迷惑する人がいるという想像力が働かない。このような小さな経験からでも人は学ぶことができるはずなのです。家庭教育のきっかけになります。
私は、動物にはない人間だけがもっている能力の一つは、想像力だと思います。見えないモノをみる。未だ現れないことを推測する。それは、他人に対して配慮する能力でもあります。それが人間のモラルの根本を支えます。
―― いまの日本人は「私」中心で世界を見ていて、「公共」という人々と共に分かちあう社会の空気が感じられません。
どう解決したらよいでしょうか。
泰永 現代人は自分さえよければ、という「毒」に中っていると思います。「いのち」が粗末にされる。子どもも大人もすべての人間がエゴを恥ずかしいとも思わずに生きています。そのエゴによって、いのちが粗末にされている。このようなエゴという毒をなくして、人間を「正見」に戻していく。結論をいえば、その役割が正しい宗教であり、お題目の信仰なのです。
現代は混迷の時代です。750年前の日蓮聖人の生きた鎌倉時代もそうでした。「いのち」の問題は、政治家も科学者にも解決できません。場当たり的な解決であれば、その道の専門家たちにも何かができるかもしれませんが、家庭教育が不在であれば、とてもできるものではありません。まして心の救済など、なおさら不可能です。
ここは仏さまの智慧に頼るのが得策というものです。わたしたちの言葉でいえば、「ご法様が見ている」といいます。
いついかなる時でも、仏さまにはお見通しだという思いがあれば、その時わたしは決して一人ではない。多くの人たちや社会と、自分は繋がっているんだ。そう思えるのです。
法華経の真理、仏さまの智慧を表すのに「一念三千」という言葉を使います。平たく言うと、他者を切り離しては、自己の主体性など存在しない、ということです。つまり、自分を取り巻く多くの人や物との関わりの中で自分は生かされ、そういう中から初めて本当の主体性が育っていく、と。
目に見えない「大いなるもの」を信仰するとき、人は「いのち」のもつかけがえのなさや、いのちの繋がりに思いが至り、家族をはじめ他者への思いやりが育っていくのです。
―― 本日はありがとうございました。
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