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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 法華経からみた教育論/第6回 安らかな死を迎える
泰永二郎会長の言葉
法華経からみた教育論
第6回 安らかな死を迎える
今年一年間のテーマ「いのちの教育」も最終回。最後に「死」について取り上げます。
四苦といわれる「生老病死」の中の「死という苦」を、人はいかに受け入れるべきか。とくに七十〜八十代という死を身近に感じられるようになった高齢者が抱えている課題を中心に考えていきます。誰もが望む「安らかな死」。しかし、死の恐怖の前で人々は苦しみ続けています。死という人生の究極の命題に「法華経」はどのように応えているのか。信仰が果たす役割について泰永会長に語っていただきました。
●黒澤映画『生きる』から死を考える
―― 今年の9月、黒澤明監督の名作映画『生きる』が、テレビ版でリメイクされて話題になりました。どんなストーリーかといえば、市役所に勤める平凡な男性が、ある日、胃ガンと医師に告知され、余命幾ばくもないことを知る。自分の人生の無意味さに絶望していたとき、部下の自由な生きかたを見て、生きる意味を求める。そして死を迎えるというものです。死とどう向き合うか、を考える上で格好の題材だと思いました。
泰永 役人の主人公が、ガンと告知されて、死とは何か、生きるとは何かを考え始め、市民のために公園をつくることに生き甲斐を見いだして、公園の完成の後亡くなりました。役人的な事なかれ主義の人が、死という現実に向き合い、死を契機に生きることの意味に目覚めていくテーマですね。
日常のなかに、死が突きつけられた時、究極の問いかけが現れる。しかし、多くの人にとって、死とは「他者の死」であり、「自分の死」として真剣に突きつめて考えることはほとんどないのではないでしょうか。とはいうものの、あながち、死を真剣に考えていない、と誹られるべきものではありません。生きているうちに死を考えても仕方がない、という常識のなかに、人々は生きているわけですから。
しかし、死に直面したときの人間の苦しみと生の輝きを表現したこのような映画を見ることで、自分の死というものについて考えるきっかけができれば、結構ですね。
―― いま、日本では年間115万人がお亡くなりになっています。その約9割は、病院での死です。自宅での自然死は1割程度に過ぎません。病院は本来治療の場なのに、いつの間にか死の現場になっています。これでは、安らかな死を迎えることは難しいと思います。
泰永 現代社会、とくに日本のように医療技術が進歩した社会では、人は昔のように自然死を迎えることができなくなっていますね。いま私たちが当たり前だと考えている、病院と医療制度の中では、自然に死ぬことがたいへん難しい。病院では治療ができなくなった末期の人が、自宅で療養をしたいと望んだ結果としての「在宅死」。または、病院にいく時間の余裕がなかった「突然死」。この二つの死以外は、必然的に病院内での死となります。
病院死が普通になって、身近に人の死を見る機会がほとんどなくなってしまったことが、今日の多くの人たちの死生観を形作っているのではないでしょうか。
私が4歳のとき、自宅で祖父が亡くなりました。そのときのことは今でもうっすらと覚えていますよ。私が幼少の頃は、自宅で死を迎えることは、まだありふれたことでした。
家のなかで、ひとりの家族が死んでいくことを、周囲の家人が見届けていく。小さな子供の心にも、その事実は受け止められます。そういうことも、すべて自分の死への過程なのです。
現代のように、社会全体が死を隔離していることのほうが、人類の歴史のなかでは特別な時期なのだと思います。
●死を宣告されたときの気持ち
―― 会長は、ご自身が余命いくばくもない、と告知されたときどうされますか。想像されたことはありますか。
泰永 私も還暦がすぐそこまできていますから、当然、自分の死について想像することはあります。
たとえば、「余命1年」と医師に宣告されたらどうでしょうか。
他人事だった死が、いざ自分の問題になると、一般には「不条理」と感じるわけですが、私は死を不条理なことだと思いません。浄風会の会長という立場では当然でしょうが、同世代のなかでははるかに死と接する機会が多いからです。死を、はじめから自分の問題として受け止めることができていますね。
それにしても、死とは何か。これは永遠の命題ですね。ことに、「自分の死」をどう受け止めるか。
死に直面したとき、身近な家族も他人なのだと、気づきます。死ぬときはたった一人ですから。
―― 死を怖がることが一般的な反応だと思います。会長にとっても死は恐れるものですか?
泰永 死とは、どんな人間にとっても、未知の世界ですからね。誰も死んだ後にどうなるのかを知らない。死の恐怖とは、一つはそのような未知への恐怖だと思いますよ。
だれでもそうですが、亡くなった人を思い出すとき、私たちは寂しさを感じますね。無常観と言い換えても良いでしょう。
寂しさとは、別れのときにわいてくる感情ですが、死んで行くものの立場になって考えてみると、死とは、やはり身近な人との永遠の別れなのです。そういう意味では寂しいことに違いありません。でも、それは受け入れなければならないことで、しかたありません。だからといって、それを恐れることはないのです。
死とは周囲の人たちとの永遠の別れなんだ。そういう境地で、死と向き合うことができれば、死の恐怖を乗り越えることができるでしょうね。
●あの世を信じない若者たちへ
―― 「あの世を信じない」という若い世代には、「死とはこの世界から消えていくこと」というとらえ方をしている人もいます。死とは自分の存在が消滅するということへの恐怖を持ちます。
泰永 私たち仏教を信じるものにとって、輪廻転生があり、死後の世があると信じることは、間違いない事実なのですが、信じていない人にとっては、この世の現実がすべて、ということになりますね。
そのような人たちは、肉体の死をそのまま、自分の存在が消えてなくなってしまうと捉える。それが死に対する普通の考え方かもしれない。
あの世がある、と信じるか。あの世はない、と考えるか。それによって死の捉え方が違ってくると思います。
証明できないことは「存在しない」と思うか。証明できないけれども「ある」と考えるか。どちらが正しいのか、理詰めで納得させることはだれにもできません。どうせ証明できないなら、自分が「消えて無くなる」よりは、ともかく自分は「存在する」と思ったほうがいいですよ。
―― 現代人は死を恐れている人ばかりのようですが、目を転ずれば、死を恐れることなく理想のために邁進する人は少なくありません。
泰永 その通りです。歴史をみると人は理想のためによく死んでいます。
「忠臣蔵」では、主君の名誉のために戦い、死を恐れませんでした。
現代では、自爆テロをして、政治的主張をする人がいる。
作家の三島由紀夫のような死に方もある。国を憂いて、自衛隊に決起を促し、自決することで政治的主張を貫いたという死でした。
それぞれの死は、生よりも価値のある何かがある、という思いに支えられていますね。
ある理想のために死ぬ。このような死を選択する人たちは、自分自身の死が、結果的に周りの人にとって価値のある死になる、という確信があります。個人的な死ではない。その考えが本当に正しいかどうかは別にして、自分の死によって社会を変える、という確信に基づいた政治的な死、社会的な死です。
このような死に価値を見いだすという死に方、ひいては生き方は、今の日本人にはなくなってしまいましたね。
―― 時代によって死の価値が移り変わっていきますね。
最近になって、死んでいく人も、周囲も満足して死を迎えていくことを「満足死」と、最近いわれるようになりましたね。
「尊厳死」や「安楽死」などの言葉もあります。
泰永 「尊厳死」や「安楽死」について、いろいろな意見があると思いますが、私は仏教者として、もっと深く考えたい。
これまで死を語ってきたのは、生きている側の人ですよね。一人の人間が死んでいく様子をみて、周囲が「これは満足死だ」と言っているだけではないでしょうか。
これは、さきの病院死と同じように、医者を中心とした専門家が、人々の死を決めるという枠組みから一歩も出ていないのではないでしょうか。
―― 余命いくばくもない、と宣告された人の恐怖を取り除く。このような崇高な仕事を、現代では宗教者ではなく医師がやっていますね。とくに既成の仏教団体は、何もしてこなかった。
泰永 そうです。病院死が増えることで、否応なく、医師が宗教者のように死と立ち会うようになりました。これは、由々しきことです。
テレビなどで時々報道されますが、自らガンと闘いながら、その体験を語ることで、同病者を励まし、彼らの死の恐怖を少しでも和らげようと発言している人がいますね。自分の死を受け入れた上で、他の患者を元気づける。このような行為は、まさに、死の中に生をみつめる、宗教的な行為といえるでしょう。
市井の人々が、自分の死を乗り越えて、生きている人に死とは何かを語りかけている。たいへんすばらしいことだとおもいます。
ただし、そうはいっても、死の恐怖から完全に開放されるということは、おそらくないと思います。
それは、やはり宗教によらなければなりません。単なる気休めではない、本当に心からそう信じられる教えによって、はじめて死の恐怖は克服できるのです。
大分前のことですが、浄風会の先代の先生が晩年、冗談交じりにこんなことを言われましたね。
「こまったものだよ。ご信者が死を恐れないのは結構だが、むしろ死を楽しみにしているところがある。もう少し病気と闘ってがんばろうという気持ちを出してもらいたいんだが(笑)」と。
私たち浄風会のご信者は、長年ご修行を重ねていくと、たしかに死を恐れなくなってくる。恐れないどころか、死んで寂光浄土に往くことが何よりの楽しみになってくる。
私はまだ、さしあたって死に直面していませんから、なかなかそういう心境にはなれませんが、そういうご信者の言葉は、私自身もよく聞きます。おそらく、そういうご高齢のご信者は、生死の境を乗り越えてしまっているのでしょうね。つまり、この世とあの世を自由自在に往復している、という心境だと思います(笑)。
―― 現代人は、会長のおっしゃる、生と死の連続性を知ることなく、この世での快適な生を少しでも長く、と願っているようです。アンチエイジングや健康食品のように、肉体の不老不死を期待しているように見えます。
泰永 肉体には限りがあるという現実を、まず受け入れなければなりません。その上で、肉体の生死を超えた「魂の不老不死」に目覚めていく。これが法華経の教えです。
   
「この経は則ちこれ閻浮提(えんぶだい)の人の病の良薬なり。
  もし人病あらんにこの経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」
(法華経・薬王菩薩本事品)
    人は、自分の肉体に必要以上に執着するから、苦しむ。その最たるものが死です。
そういう執着心は、どうしたらコントロールできるか。それは、お題目口唱の信仰を人生の中心にしっかりと根付かせること、これ以外に道はありません。
日蓮聖人は、そのことを端的に示されています。
   
「先ず臨終の事を習うて、後に他事を習うべし」
  (妙法尼御前御返事)
●ご信心していれば死は生のなかに
―― 終末医療(ターミナル・ケア)も死の教育のひとつといえます。会長のお話を伺うと、「成仏」とは何かを伝えることが本当の死の教育であり、いのちの教育、生の教育だと思います。
泰永 私は「ご信心していれば安心ですよ」ずっとそう言ってきました。死に直面している人に伝えられることはこれだけなんです。心が定まれば安心できる。私はその手助けをしているだけです。
死ぬときは必ず一人です。でも、死は終わりではありません。死は次の生への出発点なのです。
日蓮聖人は、こうもおっしゃっています。
   
「霊山(りょうぜん)へましまして艮(うしとら)の廊(わたりどの)にて
  尋ねさせ給へ、必ず待ち奉るべく候」
(波木井殿御書)
    死ぬときは一人だけど、何を恐れることがありますか?その先にはすばらしい世界が待っているのですから。この確かな安心感と大いなる命への信頼感が、安らかな死に通じるのです。
―― 本日はありがとうございました。
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