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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 法華経からみた教育論/第5回 自殺をしない生き方とは
泰永二郎会長の言葉
法華経からみた教育論
第5回 自殺をしない生き方とは
いま「いのち」のホットな問題のひとつに、自殺があげられます。今回の「いのちの教育」では、50〜60歳代に多い自殺の問題を考えます。かつて死とは、病死、事故死、自然死(老衰)をイメージするものでした。しかし、この9年間、日本では毎年の自殺者が3万人を超え、自殺率では先進国でトップです。なぜ自分の「いのち」を粗末にしてしまうのか。この現代の病理について泰永会長に語っていただきました。
●九年連続三万人以上の人が自殺する日本
―― 9年間連続で毎年3万人以上の人が自殺をしています。経済的に豊かになった日本で、この3万人という数はたいへんな数字です。1日平均で90人です。交通事故死の5倍近く、戦争の犠牲者と同じくらいの数の人ですね。
泰永 自殺はもはや他人事ではなくなりましたね。年間3万人以上の自殺者数が9年連続となれば、自分の周囲の誰かが自殺をしてもおかしくない、と考えてよいでしょう。特別に繊細な神経をした人だけが自殺をするというわけではありません。
正直なところ私は、自殺をする人の心境がわかりません。誰だって死にたくなるような苦悩はありますが、自殺までいかないで留まる手だてを共に考えよう、とはじめに強く申し上げたいです。
―― 今回の厚生労働省の調査によると、周囲に事前の相談なしで自殺した人が多いということが浮き彫りになりました。また自殺者の九割に未遂歴がありません。
泰永 諸外国では自殺を考えている人が相談する仕組みがあるために、自殺者増加の歯止めになっているようです。日本では、自殺を踏みとどまらせる社会的な環境がまだ足りませんね。自殺は個人的な行為であるという印象があるせいでしょうか。また、日本では心の病に対する、偏見があるために、ウツ病になっても、家族や会社に知られたくない、病院や専門医にかかりたくない、と我慢をして症状を悪化させる人が多いのです。
自殺の背景には個人の問題だけではなく、社会と密接な関係があります。だからといって、自殺の原因と責任を全部社会に押しつけるということではありません。
●自殺する団塊の世代
―― 自殺者の年代をみると50〜60歳代の比率が特に高く、全体の約6割です。団塊の世代の自殺の増加はなぜでしょうか。
泰永 団塊の世代にあたる60歳前後の人たちは、いったいどういう思いで自殺するのでしょうか。
おそらく彼らは、自分だけで悩みを抱え、挙句の果てに自ら命を絶ってしまったのだと思います。あるいは発作的な自殺もあるかもしれませんが、年齢的にいえば熟慮の末の自殺だと思います。分別ある還暦前後の人たちが、「もう自殺するしかない」と思ったということは、そう思わせた何かが社会にあるのでしょうね。
先ほどの、多くの自殺者が周囲の人に事前に相談しない、という報告に悩みの深刻さが表れています。
でも、たまりませんね。そこまで自分を追い込んだ人に“死んではいけない”という言葉をかけたとしても、どれだけ効果があるのかと、正直考えてしまいます。自殺した人の周囲にいる遺族や友人たちの心境を思うと胸がつぶれるような思いです。
―― 「生きたい!」という思いよりも、「死にたい!」という思いの方が強いのか。あるいは、「死んだ方が楽だ」と。
泰永 そのとおりでしょう。自殺者の心情を想像すると、たまらない気持になります。私たちの社会が、自殺したい人をこの世にとどまらせることができていないということですから。この問題で感じる無力感のもとは、実はここにあるのだと思います。
世の中のルールや規範はすべて「人間は誰もが“死にたくない”と考える」という前提でできています。ところが、いまは自殺したいという人、死にたいという人が潜在的に増えている。その結果が9年連続の自殺者3万人以上という厳然たる事実になっている。これは社会全体のモラルの危機です。
自殺者の心情を理解することは必要でしょうが、自殺者が増えているという現実を決して容認してはいけません。「死んではいけない!」と言い続けなければ、これからも自殺者は増えるばかりでしょう。
●生き甲斐を感じないとき人は死を願う
―― 50〜60歳代の自殺の増加の背景には、老後を生きる気力がなくなっているという事情があるように思いますが。しかも、男性は女性の3倍も自殺しています。
泰永 私もこれから高齢に向かう者の一人として、そういう事情は想像できます。中高年ともなればたいていの人は、自分の経験や知識、分別を総合して、老後の人生についてそれなりに考えると思います。自殺した人たちは、自分の老後にまったく希望を持てなくなったのでしょうか。
もしそうだとすると、実に不可解な判断です。
回り道かもしれませんが、人間と他の生物の違いについて考えてみましょう。多くの生物にとって、生きる目的とはズバリ、繁殖です。繁殖の機能が終れば、その生物にとって生きている意味はなくなります。昆虫などは一生に一度だけの生殖行動を終えると、それで寿命も終るわけです。
ひるがえって人間はどうでしょうか。人間は子孫をつくるという生命活動のほかに、さまざまな社会的文化的な活動をしています。それもまた、人間が生きるエネルギーになっているのです。もし、そういう活動に生き甲斐を感じなくなったとすれば、その人にとっての生きる意味は、生命活動だけになってしまいます。
いまの60代の多くの男性は、仕事一筋に働いてきた人たちです。休暇も返上し、趣味も持たず、懸命に働いて家族を養ってきた。しかしどういうわけか、家に帰って自分の居場所がない。定年を迎えても、子は親の面倒をみるわけではない。まさに働き蜂ですよ。
だから、定年になって働く機能を失ったら、そんな自分にはもう何の価値もないと思い込んでしまう。哀れな話ですが、だからといって、死ぬしかない、と思い詰めるのはあまりにも短絡的です。
―― 自殺についての統計データを見ると1990年代後半から急に増えています。また、ウツ病の人は90万人(2005年度・厚労省調査)を超えています。ウツ病から、自殺をしたいという症状が出やすいそうです。いったい何が原因なのでしょうか。
泰永 この自殺増加の原因の一つは、バブル経済崩壊による不況とリストラなどの経済的な要因やストレスであることはさまざまな専門家が指摘しているとおりですね。ですが、それだけでは説明ができないほど、自殺者が増えていると思います。
たしかに50歳代以上の人は、生きることに疲れてしまい、それをケアする家庭や地域社会も変わってしまった。昔の人は自殺したくなった人のことを「死神がついた」などといいました。それでも、自殺者は少なかったし、死ぬこと自体が畏れ多いものだったわけです。それが市場原理による競争社会がすすみ、社会構造や日本人の意識が変化したため、自殺の意味も変わってきました。
高度経済成長と共に歩んだ団塊の世代の多くは、成功体験を味わってきた人たちでしょう。そして自分が定年を迎えるころになったら、経済成長がほとんどない時代になっていた。定年になり活躍する職場はもはやない。この挫折感は強いと思います。
●思いどおりにいかない人生を楽しむ
―― 人生は思いどおりにいかない。そのような諦観ともいえる知恵が以前の庶民にはあったように思えます。いまは、思い通りになって当然という風潮になって、個人のこころの耐性も弱くなっているようです。
泰永 そのとおりですね。人として生きていくための基本的な訓練が、欠落しているように思います。私たちの世代はそれでもまだ、失敗する経験とそれを乗り越える訓練がありました。いまはそういう経験がさらに少なくなり、社会全体に失敗を許さない風潮があります。
「鈍感力」という言葉が流行していますね。少々のことは鈍感になって聞き流すのも生きる知恵でしょう。みな、他人の言動や視線に敏感すぎるのではないでしょうか。
そもそも、自分の思いどおりに行かないのが人生です。その前提でものごとに取り組んでいけば、うまくいったときには格別の喜びが得られるわけです。この達成感や喜びが生きる力になります。それを知っているかいないかの差は大きいと思います。
―― 先日のニュ―スで、ネットカフェ難民についての厚労省の調査の発表があり、若い世代だけではなく50歳代の年代の利用者が多いと知り、びっくりしました。
泰永 自殺にいたる背景とも共通しますが、現代社会の人間関係の希薄さも指摘しておきたいですね。世代に関係なく、いま深い人間関係を持たないで生きる人が増えました。ネットカフェ難民になる前に、家族、親戚、友人に頼るということができない。それだけ孤立しているのです。
さらに大事な視点をいえば、これほどまでに日本社会の自殺率が増えた要因の一つに、宗教不在になった戦後日本の文化風土の変化があげられます。
欧米などで日本ほど自殺が多くならないのは、自殺を罪と見なしているキリスト教文化の影響が歯止めになっていると考えられます。それに対して、日本では宗教全般に無関心の人が増え、自殺の歯止めがなくなっている。これは憂うべき事態です。
私たちの世代では、小さいうちから“悪いことをすると地獄に行く”と、当たり前のように教えられました。死後の世界に対する畏れが自然にすり込まれていました。それが昨今ではなくなってしまった。科学万能の時代では、証明できないことは“存在しない”というわけです。これでは、死を畏れることをベースにした死生観が育ちません。
―― 宗教的な志向を拒否する反面、若い世代には、生まれ変わりや、スピリチュアルな現象を信じることがブームになっていますね。
泰永 このブームは危険ですね、現実のつらい人生をやり直してリセットしたい、という実に単純な欲求に支えられています。思いどおりにならない人生をやり直して、もっと理想的な人間に生まれ変わる。都合のよい死生観ですよ。冷静に考えれば、人間の死後は誰にもわからないのです。死んでわからないところにいくと思うからこそ、そこに不安や畏れが生じる。しかし、そういうものから目を逸らして、今の自分の生活やプライドはそのままで守りたい。でも、人は孤独と不安から本質的には逃げることはできないのです。
若い世代のことは別の機会にお話しするとして、先ほど「鈍感力」の話をしましたが、同じような意味で、生き方の中に「ゆとり」とか「あそび」といったものがあるかどうかが、大事な要素だと思います。人間というものは、ある日突然に今までの生き方を捨てて、180度方向転換するなんてできないものです。つまり、定年退職してから生き方を変えるのではなく、その前の日頃から仕事以外にも生き甲斐を見つけておく必要があるということです。それは、生き方にゆとりがなければとてもできません。仕事一途に脇目も振らずにという人にかぎって、仕事を取り上げられると、絶望してしまう。
もちろん、ゆるみっぱなしでは困りますが、張り詰めた生き方だけではない「ゆるめ方」を学ぶことも、自殺に追い込まないためには必要なことではないかと思います。長年同じように仕事に打ち込んできて、しかもリタイアしても決して時間を持て余すこともなく、老後を生き生きと楽しんでいる人たちは、きっとこの辺の呼吸をつかんでいるのではないか、そんなふうに思います。
●「命の連鎖」の重みを実感して
―― 自殺者3万人が減少する要素が見いだしにくい社会です。自分の悩みを受け止めてくれる家族や友人もつくりにくくなっているのではないでしょうか。それが改善されない限り、自殺者は減らないように思います。
泰永 実際に個々の人が自殺に至るまでにはさまざまな要因があり、簡単には解決策も見出しにくいですね。
今まで一生懸命に働いてきて、本来ならばまだまだ先の長いこれからの人生を、自分で閉じてしまう。とても残念なことです。厳しい言い方かもしれませんが、これはどうしても言っておかなければなりません。それは、自殺をしようと思う人は、自分が周りの人に与えている意味をなんと考えているのか、ということです。
私は、大きな思い違いが2点あるように思うのです。
1つは、「周りに迷惑をかけてはならない」という思い違いです。経済活動をしてこそ人生の価値があると信じているから、働けなくなると自分には生きる価値がないと落ち込む。働けないのに、世話になるだけでは申し訳ないと思ってしまう。あるいは、借金や事業のつまづきなどで行き詰ったとき、周りに迷惑をかけてはいけないと思ってしまう。そうではないのです。心を開いて、迷惑をかければいいのです。それですべてが解決するとは限りませんが、自分が心を開けば、必ず道は開けてくるはずです。周囲の人たちだって、それを待っているかもしれないのです。
もう1つは、「自殺は自分の自由」という思い違いです。私は、自殺に対する罪悪感があまりにもなさすぎると思います。自分の命を殺すことは悪だという感覚を取り戻さなければなりません。それだけではありません。もしも、あなたが死んだら、何人の人が悲しむと思いますか?家族や友人がどれほどつらい思いをするか、そういう想像力がどうして働かないのかと思います。声を出して、自殺は悪だというモラルを社会のなかで共有化していくべきでしょう。自殺をしてはいけないという倫理観を醸成する。これこそ宗教の役割です。
宗教者として私が申し上げたいことは、自分という一人の人間がこの世に存在することの重みを知ってほしいということです。それは「命の連鎖」の重みです。自分がいま生きているのは両親、さらに先祖がいたからこそです。また次の世代や今の人間関係とも深く関わって、自分がいる。そういう実感をもってほしいのです。そしてそういう話題について、普段から家族や友人と語りあってほしいです。
自殺に対する歯止めのなさは、日本人が人間の生と死の厳粛さを見つめてこなかったためでしょう。生きるということは、命の連鎖を担う一人ひとりの人間としての責任なのです。
―― 本日はありがとうございました。
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