浄風会は、日蓮聖人によって正しく理解・実践された法華経の教えに基づき、正しい生き方を求め、平和で調和ある世界を実現することを活動目的としています。社会に生き、社会を活かす信仰を弘めるため、在家、つまり一般社会人たちによって運営されている教団です。さて本年は「暮らしの中に信仰を」をテーマに、泰永会長にさまざまなお話を伺っていきます。 |
●初詣ははたして信仰か |
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今年のお正月には、日本の主な神社仏閣への人出が9818万人で、統計を取りはじめた1974年(昭和)以来最高であったとのことです(警察庁発表)。それだけ世間の人々の宗教への期待が高まっているということなのでしょうか? |
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泰永 |
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さあどうでしょうか。私はそうではないと思っています。新年を迎えて、着飾って初詣に行き、今年こそはいいことがありますように、と願をかける。これは日本人の習俗とでもいうべきものであって、信仰と言えるものなのかどうか、かなりあやしいですね。
宗教心の表れというのであれば、どの宗教にも教えというものがあるわけですから、その教えに対する信仰があるはずです。初詣に出かけた人々がみな、そのお寺や神社が何を祀りどういう教えを説いているかなど、とても意識しているようには思えませんね。
一方で、お寺や神社の方でも、初詣はわが方へ、と大々的に広告していますが、そこには宗教としての教えもなにもない、ただ、お賽銭をください、といっているに等しい。 |
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浄風会では初詣はしないのですか? |
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泰永 |
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私たち浄風会では、元旦のお参りのことを新年祝祷会(しゅくとうえ)といっています。今年も全国のご信者がそれぞれの支部会館にお参詣をし、午前11時を期して一斉に式典を営みました。皆で南無妙法蓮華経のお題目をお唱えし、またテレビ中継を通じて私からの『年頭にあたって』のメッセージも皆さんに示しました。毎年のことですが、大勢のご信者のみなさんとともに、厳粛にそして清々しい心持ちでお互いの信仰を励ましあうことができ、すばらしい一年のスタートが切れました。これは、年の初めのお参りですから初詣には違いありません。しかし私たちの初詣には、信仰という太い筋が一本通っている。この点は世間の初詣とはまったく違うものです。
このことは初詣に限ったことではありません。一年中いつのお参りも同じで、みな同じ信仰に貫かれている。さらに言えば、節目節目のお参りだけではなく、私たち信者の毎日の暮らしそのものに信仰という一本の筋が通っているわけです。
正月限定の信仰心なんて変ですよね。信仰とはそういうものではないでしょう。 |
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●スピリチュアル・ブームにごまかされない |
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もう一つ、流行、ということもあるように思います。最近はスピリチュアル・ブームとかいって、なんとなく宗教的な雰囲気にひたることで「癒し」を求めたり、「運気グッズ」がもてはやされたり、テレビ番組で霊能者が人気を博したりしているようです。 |
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泰永 |
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精神的なものへの関心は人間の文化の基本といってもいいものだし、人間は弱いものですから神秘的なものへ憧れるということもあるでしょう。ただし、最近の流行は、どこかバランスを欠いていて、かえって即物的になっているような印象を受けます。その背景には、やはり経済効率を最優先する現代社会のひずみがあるのではないでしょうか。
経済優先の社会というものは、何よりも数字が幅を利かせる社会だということです。数字というものはたいへん便利なもので、一目でわかるし、客観的で比較するのにも便利で、私たちの生活に大いに役立っています。
けれども、数字で表すことによって覆われてしまったり切り捨てられてしまうものもあります。一人一人の置かれている状況や抱えている問題、とくに心の領域や価値観は数字によっては表されません。人間には経済活動のように数字で表されるような側面もあれば、それでは表されない価値とか心という側面もあります。どちらも同じ人間の活動ですから、その二つは本来一つのものでしょう。現代の社会は、本来一つのものを数字で表される側面だけを強引に取り出して強調しているために、心や価値の問題が置き去りされているように感じられてしまう。そこで、数字万能、効率最優先の風潮への反動として、占いだとか、霊能だとかがもてはやされるのだろうと思います。
しかし、ちょっと冷静になってみればすぐにわかることですが、スピリチュアル・ブームというものも経済活動と無縁ではありません。運気グッズは商品ですし、占い師や霊能者に相談するのにも高い相談料を払うわけですから、れっきとした商売です。経済優先の風潮から逃れようとする気持ちも商売のタネにする、いよいよ世知辛い世の中になったものです。 |
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スピリチュアル・ブームの原型は、米国西海岸で1960年代に起こったカウンターカルチャーの核である「ニューエイジ思想」に端を発しているということです。 |
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泰永 |
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現在のキリスト教は、明治になってから西洋から入ってきたものがほとんどですから近代化されていて、日本人としてはなんとなくハイカラでスマートな印象を持ちやすいのですが、アメリカのキリスト教団体のなかには熱狂的に踊ったりする宗派もあるようです。なかにはカルト的な教団もある。アメリカの文化というとビジネスライクで合理的というイメージがありますが、神秘的なものにひかれる傾向もあるのです。そうした神秘的、反物質文明的なものへの志向と、もう一方の合理的、進歩的、非教会的、またビジネスライクな傾向とが結びついて、ニューエイジと呼ばれる啓蒙運動が広まったのでしょう。具体的には音楽、思想、瞑想、パワーストーンなど、商業化されたものを含めて多岐に及んでいますが、心の問題を扱うだけに慎重に付き合う必要があります。 |
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●魂の置きどころを定める |
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あるアンケート調査の結果では、今年の新成人の半数近くが日本の未来は暗い、と答えているそうです。多くの人が擬似宗教的な「神頼み」に走るのも、そうした世相と無関係ではないように感じます。 |
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泰永 |
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若い人は時代に敏感ですからね。何につけても競争へとせきたてられて、たとえ目の前の競争に勝ち抜いたとしても、それは一時の成功に過ぎず、その先に幸せがあるのかどうかはわからないということを見抜いているのでしょう。理想的な大人像を抱ききくいという世相もありますしね。
さて「癒し」という言葉は、今ではすっかり定着してしまいましたが、日本語としては新しい部類です。「癒し」が求められるほど、現代の日常生活が過酷なのだということです。だから、そうした日常から逃れて、ホッとしたい、心にゆとりや安らぎを持ちたい、そういう気持ちがあるのだろうと思います。そこにスピリチュアル・ブームが生じる根があるのです。
しかし、注意しなければならないのは、日常生活を否定して、その対極の非日常的なものに心の平穏を求めても、本当の平安は得られないということです。例えば、瞑想にふけって非日常的な気分を味わい、ひととき心の癒しを感じられたとしましょう。でもそれは、旅行に出かけて景勝地を眺めたり、温泉に浸かって日頃の憂さを晴らすのとかわりはありません。いつまでも旅行し続けることができないように、年中瞑想にふけったままでは生活が成り立たない。ですから、日常生活そのもののなかに平穏を求めていかないと、ゆがみが出てきます。そのゆがみが極端になると、社会から孤立してしまったり、生活を破綻させたり、カルト宗教にのめり込んでいったりすることになります。
きちんとした教義のない、短絡的な輪廻思想なども注意せねば人の生き方を誤らせてしまいます。 |
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そこで「暮らしの中に信仰を」ということですね。 |
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泰永 |
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そうです。正確には正しい信仰を、です。もっとも、「暮らしの中」といっても、生活の中の何割が家庭生活、何割が仕事、何割が信仰、というように分けられるものではありません。24時間すべてが信仰に貫かれている、それが暮らしの中の信仰ということです。もちろんのべつまくなしに宗教活動をしているということではありません。つまり、ここが大事なところですが、社会で仕事をし、家庭生活を営み、ときにはリラックスしてホッと一息ついたりする、その生活の一コマ一コマに信仰が生きている、ということなのです。
言葉を変えれば、信仰とは、魂の置きどころを定める、ということ。しっかりと自分の魂の置きどころを定めた上で、24時間、365日を生きていく。それが本当の心の平穏を得られる道なのです。 |
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●本当のご利益を求めよう |
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ところで、信仰にはご利益ということがつきものですが……。 |
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泰永 |
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ご利益という言葉はどなたもご存知ですよね。辞書には「神仏の霊験」とあります。もっと分かりやすく言えば「信仰によって得られる効果」のことです。しかし、言葉は知っていても、はたしてどれだけの人が本当の意味を承知しているか、はなはだ疑問です。
ご利益という言葉に、たいていの人は迷信くささを感じると思います。また、ご利益目当てに信仰する人などは、労せずして利を得ようとする怠け者に映るかもしれません。ご利益というものを、初詣でお賽銭をはずんだから金儲けができるとか、お守りを買ったから試験に受かるとか、運気グッズを買ったから運が向く、というようなものと思っていればそう感じるのも仕方ありません。
しかし、考えても見てください。何の努力もせずに何もかもうまくいくなどという、そんなうまい話があるわけがありません。
法華経に説く本当のご利益というのは、正しい教えにもとづいて、正しく修行をした結果の、必然の到達点なのです。そしてそれは、決して迷信でもなければ、怠け者の求める卑しいものでもありません。正しい信仰によってもたらされる至極の境地、それが本当のご利益なのです。
信仰というのも同じことです。正しい教えにもとづいて、正しく修行をする。これを省略して、困った時だけ、あるいは何か願い事がある時だけ、わずかばかりのお賽銭をあげて掌を合わせても始まらないということです。
ご利益を本気で求めるのなら、やるべきことをやらなければなりません。スポーツ選手が素晴らしい成績を出せるのも、理にかなったトレーニングに励んだ当然の結果です。 |
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現代人は、何をするにも自信がない、という人が多いように思いますが……。 |
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泰永 |
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確かに現代は、変化が予想をはるかに超えて目まぐるしい上に、情報の洪水で自分を見失いやすいということはあると思います。おまけに社会の混迷も、いつ終わるともしれません。そこで、今の世の中はおかしくなった、昔のほうがよかったということになり、それが現代人の自信喪失につながっているのでしょう。
ですが、今の時代は今の時代でよいところもあるし、それを支えてきた人たちにも誇るべきものがあるはずです。それを堂々と誇ればいいのです。それができないのは、自分自身が拠って立つものを持たないからです。拠って立つものを持たないと自分に自信が持てないし、自信が持てないと誇りも生まれません。
それに、自信がないというのもそんなにおかしなことではありません。むしろ、特別に自信過剰の人はともかくとして、普通の人の多くは、自惚れたりせずに自分自身を冷静に捉えていて、長所も短所もある程度把握しています。だから、生活や仕事で、あるいは対人関係などで、ちょっとつまずいたりして弱気になると、自分の欠点が大きく見えて自信を失ってしまう。それだけ真面目な人が多いということでしょう。
けれども、自分が少々ぐらついても決して揺るがない大きな存在を抱えていると、いざという時にそれが支えになってくれる。たとえ、自分が倒れそうになっても支えてくれる大きな存在があるという信念があれば、ともすればマイナスになるような精神状態がプラスに変わっていく。そして、そういう経験を重ねながら本物の自信が育っていく。信仰を持つということは、そういうことなのです。
スーパーマンみたいなものを目指そうとしても無理だし、強くなれといったってそう簡単に強くなれないのが人間というものです。でも、弱くたっていいじゃないですか。すべての面で強くて自信にあふれている人なんているわけがありません。自分の弱さを自覚しながらも、それに振り回されないようにすればいい。そうすれば、弱さの自覚は自信のなさではなくむしろ謙虚さになります。そのためには、魂の置きどころ、すなわち信仰というものをしっかりと定めて、日々の暮らしを生き抜くことです。 |
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本日はありがとうございました。 |
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