まずここで言う「公」とは、自分が属している社会のことです。その最小が家族ですが、視点の定め方によっては、それが地域社会であったり会社であったり、あるいは国家であったり世界であったりします。私たちが生きていく限り、そういう「公」との関係はどうしたって切り捨てることは出来ません。どんな人でも何らかのかたちで社会と接点を持っています。例えば、ひところ話題になった「引きこもり」の人も、生きている以上はお金や食べ物が必要です。それはどこから来るのか?
親に養ってもらっているとすれば、子どものために親が生活費を稼いできてくれているわけです。その親は社会の中で仕事をし、また、食べる物、着る物、生活に必要な物もすべて社会の恵みなのです。このようにどんな人でも「公」の恩恵を受けて生きている。
また、「私」は「公」から恩恵を受けているだけではなく、何らかのかたちで貢献もしています。社会貢献というと、ボランティアのことが真っ先に思い浮かべられますが、それだけではありません。ボランティアでもしなければ社会とかかわっている実感が持てないというので、あまりにも視野が狭いと思います。先ほども話したように、家族という「公」にとって、「私」はかけがえのない存在です。それと同じように、自分が自覚しているか否かは別にして、家族以外のもっと大きな「公」にとっても、間違いなく「私」はかけがえのない存在なのです。
このように「私」は「公」無しにはあり得ないし、「公」も「私」無しにはあり得ない。「公」と「私」とはそういう関係にあるわけです。しかも、この「私」は、自立した私、主体性のある「私」でなければなりません。
最近は、若い人たちのあいだで「空気読め」という言葉が流行していて、いつの間にか大人たちも使うようになりましたね。もともとはその場の雰囲気を察しなさいという意味だったのでしょうが、このごろは何でもかんでも場の雰囲気に合わせろ、つまり「私」を消し去れという意味になっているようです。これでは、いくらその場の雰囲気がよくても、「私」にとっては何の意味もなくなってしまいます。主体的な「私」があって、初めて「公」と「私」の本当の関係が成り立つのです。
私がこういうことを申し上げる根拠は、じつは法華経の教えにあります。いま難しい話はしませんが、法華経に説かれた世界観、平等観というものを一口に言えば、この世の中のあらゆる命が互いにそれぞれの存在を認めて、しかもそれぞれが個性を発揮しながら協調し合う。これがあるべき本来の世界だと、法華経は説いているのです。
昔は滅私奉公と言って、「私」を滅して「公」に尽くすことが求められました。この「公」とはすなわち国家のことで、お国のためには命をも捨てよというわけです。しかし、「私」を滅しては本当の奉公にはなりません。自分の個性・主体性を生かした自立した「私」があってこそ「公」に尽くすことができるのです。今でも、トップの号令一下で一糸乱れぬ軍事パレードやマスゲームを繰り広げる国家や宗教団体がありますが、これなどは「私」をいっさい認めない、まさに滅私奉公なのでしょうね。
実は浄風会でもご奉公という言葉を使います。私たちは、教団の宗教活動に参加することを伝統的にそういっているのですが、これは決して滅私ではありません。この場合、信者個人が「私」で、その「私」が属している教団が「公」ということになるわけですが、ここではもっと本質的なところを指しています。つまり浄風会が奉戴している信仰の対象としてのご法様が「公」になります。
私たちの信仰は、信者それぞれが主体的にご法様を信奉し、ご法様のために尽くすことを修行としています。ご法様のために尽くすことが、結局は自分自身を磨くことになる。一方通行の関係ではありません。これが「公」と「私」のあるべき関係で、それは家庭でも、社会でも、企業でも同じでしょう。滅私奉公と思ってひたすら仕事に打ち込んでばかりいては、やがて大切な自分自身が置き去りになってしまいますし、その反動で自己主張一辺倒だと、結局は敵対意識と不満ばかりの緊張関係になってしまうのです。 |