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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 暮らしの中に信仰を/第2回 自信とは自分の価値に気づくこと
泰永二郎会長の言葉
暮らしの中に信仰を
第2回 自信とは自分の価値に気づくこと
進学、就職、転勤など人によっては環境が大きく変化するこの季節、勢い環境変化に順応できず、不安にさいなまれ、自信をなくす人もいることでしょう。そこで今回のテーマは自信です。どうすれば本当の自信が持てるのか、ヒントあふれる内容です。
●五月病に負けない
―― 春になると卒業、入学、就職、転勤、またそれに伴って転居など、生活環境が変わることが多いかと思います。多くの人は張り切って新生活に取り組むと思いますが、なかには環境の変化についていけずに自信を失い、いわゆる「五月病」になる人もいるようです。
泰永

赤ん坊が、少し物心がついてまわりのことが分かってくるようになると、人見知りが始まりますね。専門的なことはわかりませんが、「五月病」はこの赤ちゃんの人見知りに似ているように思います。

大人だって同じです。環境が変わったり、知らない人の間に交じってやっていこうとするときは誰だって不安になるものです。自分の能力が、社会や他人という鏡に映し出されるわけですから、そこには当然ギャップが生じる。情報量も一気に増えて処理しきれなくなる。だからこれはごく当たり前の反応なのです。たいていは、そういうギャップに悩みながらも、それを踏み台にして少しずつ成長していくのです。
―― 不安は誰しも感じるものですが、なかには不安に押しつぶされて、極端に自信をなくしてしまう人もいます。こうなると深刻です。
進学や就職で挫折したときは、やはり落ち込むのではないでしょうか。
泰永

それはそうでしょう。でも、人生というものは、すべてが希望どおりにいくわけではないし、またそれがいいとも限りませんよ。

今の社会は一般的に効率第一主義、能力主義だとマスコミなどでは言われています。そういうなかで、能力的に劣っていることを指摘されたりすると、たちまち自信をなくしてしまう。確かに効率や能力を重視する一面はあるでしょうが、全部が全部そうではないと思います。私たち庶民の現実の生活のなかでは、必ずしもマスコミで言われているような効率第一主義、能力主義の物差しだけで生活しているわけではないのです。

たとえば、ドラマでも小説でもテレビのドキュメンタリーでも、現代の医学ではとても治りそうにないような難病に苦しむ人や、患者を支える家族や医師の物語が好んで取り上げられます。昔の『赤ひげ』から最近の『Dr.コトー診療所』や『ブラックジャックによろしく』まで、どれも効率第一主義や能力主義の観点から言えば非効率的なことをやっているということになります。それでも私たちは、その非効率的な物語に感動して涙を流しているのです。

結局、人間の価値とは、能力だの効率だのだけでは測れない側面があるということを、実は誰しもわかっているのです。

家族にしてみれば、その人がいる、という、ただそのことだけで、励みになったり、希望になったりするのです。親子であれば自分の子どもが、あるいは親が、たとえ重病で、どんなに看病に手間がかかろうが、それでも生きていてほしいと願うものです。それはその人が、何かの能力があるとか役に立つとか、そういうことではなく、ただ生きているだけでうれしい、その人の存在そのものに価値があるということではないでしょうか。そのことに当人も気がつけば、そこに生き甲斐が生まれます。

人間がもともと持っている価値に気づく、それが自信というものにもつながっていくのです。

日蓮聖人は次のようにおっしゃっています。
「成仏とは、我が身を知るを仏に成るとは申すなり」(十二因縁御書)。
成仏するとか悟りを得るというのは、要するに自分では気づいていない自分の本当の価値に目覚めることだというわけです。これは裏を返せば、本当の自分を知るということがいかに難しいかということでもあります。しかし、仏の悟りなどという深いところまでいかなくても、その一部でも気がつくことができれば、それは自信につながっていくはずです。

個人=「私」というものは決して一人で存在しているのではありません。社会(環境)=「公」というものがあって「私」がある。ですから、家族にとって、あるいは職場や社会にとって、自分の存在に意味がある、自分の価値は決してゼロじゃない、そのことに気づいてほしいですね。
●「公」の立場から叱る
―― 若い人が自信をなくしがちなのは、受け入れる側の問題もあると思うのです。例えば、このごろは、親身になって人を叱る、ということを大人がしなくなったように思います。
泰永

たしかにそういう傾向はありますね。昔は叱るほうも叱られるほうも、真剣だったように思います。本気で叱るから、その指導も心に沁み込んでくる。ところが、昨今では叱るということをほとんどしなくなった。あるいは叱るということが、少し違ってきた。そんな気がします。なかには、自分の権威や能力をアピールするために叱る人もいるようですが、そんな叱り方では反発を招くだけでしょう。

叱るというのは、本当は辛いことなんですよ。人を叱るにはものすごいエネルギーが必要です。私は、どうしても叱らなければならないときは叱りますが、涙が出るほど辛いですね。

感情を爆発させて怒鳴りちらすことを叱ることだと誤解している人がいますが、相手に自分の感情をぶつけても叱ったことにはなりません。怒ることと叱ることは似ているようで違うのです。ふつう、叱る相手は、部下なり、生徒なり、子どもなり、自分のいわば指導下にある人です。自分の指導下にある人を叱るというのは、結局、自分で自分を叱る、自分の指導の至らなさを叱るということなのです。

叱る側は、上司であったり、教師であったり、親であったりするわけですが、広い意味での社会、つまりは「公」の立場から叱るのでなくてはなりません。自分の私的感情からではなく、世のため人のため、ひいては叱られる本人のために叱るのだ、という覚悟を持たずに人を叱ることなどできないのです。

ですから、人を叱るということは難しい。あいつは何となく気に入らない、とか、今日はムシャクシャする、とかいった「私」の立場を離れなければならないわけですから。「公」の立場から叱るということは、叱る相手をしっかりと受け止める、相手の存在を認めるということです。それなしに叱ろうとすれば、それはただの個人攻撃になってしまいます。
●「滅私」では本当の奉公にはならない
―― 「公」と「私」についてもう少しご説明願えますか?
泰永

まずここで言う「公」とは、自分が属している社会のことです。その最小が家族ですが、視点の定め方によっては、それが地域社会であったり会社であったり、あるいは国家であったり世界であったりします。私たちが生きていく限り、そういう「公」との関係はどうしたって切り捨てることは出来ません。どんな人でも何らかのかたちで社会と接点を持っています。例えば、ひところ話題になった「引きこもり」の人も、生きている以上はお金や食べ物が必要です。それはどこから来るのか?
親に養ってもらっているとすれば、子どものために親が生活費を稼いできてくれているわけです。その親は社会の中で仕事をし、また、食べる物、着る物、生活に必要な物もすべて社会の恵みなのです。このようにどんな人でも「公」の恩恵を受けて生きている。

また、「私」は「公」から恩恵を受けているだけではなく、何らかのかたちで貢献もしています。社会貢献というと、ボランティアのことが真っ先に思い浮かべられますが、それだけではありません。ボランティアでもしなければ社会とかかわっている実感が持てないというので、あまりにも視野が狭いと思います。先ほども話したように、家族という「公」にとって、「私」はかけがえのない存在です。それと同じように、自分が自覚しているか否かは別にして、家族以外のもっと大きな「公」にとっても、間違いなく「私」はかけがえのない存在なのです。

このように「私」は「公」無しにはあり得ないし、「公」も「私」無しにはあり得ない。「公」と「私」とはそういう関係にあるわけです。しかも、この「私」は、自立した私、主体性のある「私」でなければなりません。

最近は、若い人たちのあいだで「空気読め」という言葉が流行していて、いつの間にか大人たちも使うようになりましたね。もともとはその場の雰囲気を察しなさいという意味だったのでしょうが、このごろは何でもかんでも場の雰囲気に合わせろ、つまり「私」を消し去れという意味になっているようです。これでは、いくらその場の雰囲気がよくても、「私」にとっては何の意味もなくなってしまいます。主体的な「私」があって、初めて「公」と「私」の本当の関係が成り立つのです。

私がこういうことを申し上げる根拠は、じつは法華経の教えにあります。いま難しい話はしませんが、法華経に説かれた世界観、平等観というものを一口に言えば、この世の中のあらゆる命が互いにそれぞれの存在を認めて、しかもそれぞれが個性を発揮しながら協調し合う。これがあるべき本来の世界だと、法華経は説いているのです。

昔は滅私奉公と言って、「私」を滅して「公」に尽くすことが求められました。この「公」とはすなわち国家のことで、お国のためには命をも捨てよというわけです。しかし、「私」を滅しては本当の奉公にはなりません。自分の個性・主体性を生かした自立した「私」があってこそ「公」に尽くすことができるのです。今でも、トップの号令一下で一糸乱れぬ軍事パレードやマスゲームを繰り広げる国家や宗教団体がありますが、これなどは「私」をいっさい認めない、まさに滅私奉公なのでしょうね。

実は浄風会でもご奉公という言葉を使います。私たちは、教団の宗教活動に参加することを伝統的にそういっているのですが、これは決して滅私ではありません。この場合、信者個人が「私」で、その「私」が属している教団が「公」ということになるわけですが、ここではもっと本質的なところを指しています。つまり浄風会が奉戴している信仰の対象としてのご法様が「公」になります。
私たちの信仰は、信者それぞれが主体的にご法様を信奉し、ご法様のために尽くすことを修行としています。ご法様のために尽くすことが、結局は自分自身を磨くことになる。一方通行の関係ではありません。これが「公」と「私」のあるべき関係で、それは家庭でも、社会でも、企業でも同じでしょう。滅私奉公と思ってひたすら仕事に打ち込んでばかりいては、やがて大切な自分自身が置き去りになってしまいますし、その反動で自己主張一辺倒だと、結局は敵対意識と不満ばかりの緊張関係になってしまうのです。
●自信を持って信仰生活を
―― ところで、浄風会の信者の皆さんは、自信を持って日々の信仰生活を送っていると思いますか。
泰永

私は、多くの信者は自信に満ちて信仰生活を送っていると思いますよ。特にご葬儀のときなど、式を進行する人も参列する人も、みなさん浄風会の信者であることを誇りにしているように感じられます。

ただ、私たちは在家で、僧侶はただの一人もいません。ですから初めて当会の式典を目にする人は、多少とまどうことはあるかもしれません。

仏教は、日本では長いあいだ、お寺と一体のものと見なされてきました。寺院や僧侶というものが社会的な存在として認められてきた歴史があります。お寺に行けば本堂には仏像が安置され、法衣剃髪(ていはつ)の僧侶が御経を読み座禅を組む。それが大半の日本人が抱いている仏教のイメージでしょう。こうした寺院仏教の伝統的なイメージがあまりにも強すぎたため、あるいは創価学会や昨今の新宗教の顰蹙(ひんしゅく)を買うような振舞いのために、残念ながら在家仏教という現代社会に最も適した信仰生活のあり方が、なかなか周囲に理解されにくいのです。

しかし何といっても、私たちの戴いている教えは、釈尊の説かれた最高の『法華経』に基づく正統の本化仏教です。自信のよりどころとして、これほど間違いのないものはありません。そしてその純粋性をあくまでも堅持しつつ、しかも具体的な信仰生活については現代社会に適応すべく常に改革改善を重ねていく。この両立は決して容易なことではありませんが、それを承知の上で、私たちはこれから先もしっかりと取り組んでいく覚悟です。

先ほども申し上げましたが、信者にとって浄風会は「公」です。その浄風会は、信者ひとりひとりの「私」の主体的な信仰があってこそ成り立っているのです。互いの信仰を磨き合い、互いの存在価値を認め合い、そういうご修行の中から成仏、すなわち本当の自分を知ることを目指していきたいと思います。
―― 本日はありがとうございました。
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