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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 浄風エッセイ/第6回 煩悩に溺れない生き方をするには

泰永二郎会長の言葉

 

浄風エッセイ

煩悩に溺れない生き方をするには

■凶事を引き起こすのは人間の欲望だが…
 秋も深まり、朝晩は気温もめっきり低くなってきました。この一文が「浄風」誌に掲載されるころには、もはや冬の足音がはっきりと聞こえていることでしょう。
 そんな季節の移ろいのなか、時折吹きつける木枯らしよりも、さらに寒々とした思いにとらわれる出来事がありました。
 その1つは、30代の女性が複数の男性から多額の金を騙し取り、その男性らが相次いで不審な死を遂げていたという事件です。しかも同様の事件が続いたのです。
 私もそろそろ還暦を迎える齢になり、この間いくつもの残虐な事件を見聞きしてきました。そうした事件に接するたびに、やるせない思いにとらわれるのは私ばかりではないでしょう。昔から「天網恢々(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏らさず(もらさず)」と言いますが、隠し通せようはずのない悪事に、人はどうして手を染めてしまうのだろう。そう思わずにはいられません。
 いや、ここで犯罪心理について述べるつもりはありません。もっと心の奥底の、人間ならば誰もがもつ欲望とはどういうものか。時として冷静な判断を狂わせ、人を悪事に走らせてしまう欲望の本質は悪なのか。
 今回はそういうことについて、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
 ところで、仏教では人間の持つ欲望を総称して「煩悩」といい、これがさまざまな形で自らを苦しめることになると説かれています。だからいろいろな犯罪も、詰まる所みな煩悩に振り回された結果ということになりますが、煩悩とは決してそんな単純なものではありません。

 

■108どころではない煩悩
 大晦日の除夜の鐘は、108回撞くことになっています。この108が煩悩の数を表すというのは、聞いたことがあるでしょう。
 108という数がどういうものかいろいろな説がありますが、その一つを紹介しますと、基本は「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根(6つの感覚器官)です。人間は外界のさまざまな事物に触れることによって、そこに煩悩が生じるというわけです。この六根にそれぞれ「好・悪・平」の三通りがあり、これに「染・浄」の2つを掛けて36類となる。この36を更に「過去・現在・未来」の三世に配当して108と数えるというのです。
 しかし、インドでは非常に大きな数を108で表すということだけで、108に特別の意味はないという説もあるわけで、実際には煩悩の数は無限といっていいのかもしれません。

 

■煩悩は人間らしさの源泉
 さて、煩悩が人を犯罪に走らせるといえば、煩悩は悪ということになりますが、そう決め付けるわけにはいきません。なぜならば、人間の行動はほとんど煩悩から発していると言っても過言ではないからです。
 お金を儲けたい。出世したい。名を揚げたい。健康でいたい。楽をしたい。苦しみたくない。愛情を独占したい。他人のすることが気に入らない。イライラする。許せない。頭にくる。嫉ましい。あれこれと迷って判断がつかない。答えが見えない。等々。.
 これらは「三毒(貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち))」といわれる根源的な煩悩に当りますが、煩悩はそればかりではありません。社会的に価値のある欲求、例えば向上心や向学心、更には世のため他人のために役立ちたいという欲求までも、広い意味では煩悩の中に含まれます。
 そうしてみると、煩悩は必ずしも悪といって一方的に唾棄すべきものではなく、善きにつけ悪しきにつけ、すべての人間の行動のエネルギー源ということができるでしょう。つまり、煩悩は人間らしさの源泉なのです。
 しかしまた厄介なことには、人間らしさの源泉であるが故に、しばしば当人の心身を乱し、悩ませ、自分や周囲の人たちに多くの苦悩をももたらすことになるわけで、だからこれを「煩悩」というのです。

 

■煩悩を上手にコントロールする方法
 かつて仏教では、この煩悩を滅することをもっとも大事な修行としていました。煩悩こそが苦悩の根源であり、悟りを妨げる第一の障害だと考えたからです。
 しかし、煩悩を滅することなどできるはずもありません。人は、煩悩がなければ生きていくことすらできないのです。食欲だって睡眠欲だって、そのほか人が生きていくための欲求のすべてがみな煩悩なのですから。煩悩はまさに人間らしさの源泉なのです。
 たとえ、煩悩を完全に断つ立つことができたとしても、その瞬間その人はすでに人間ではなく、ただの「生きる屍」となってしまいます。苦悩から開放されたとしても、人としての希望も喜びも何も残らないでしょう。
 そう、煩悩など無理して断つことはありません。無理に断とうとすれば、更に苦悩が増すだけです。
 では、煩悩を放置したままで苦悩から開放される方法があるのでしょうか。
 それこそが法華経の教えであり、日蓮御聖人の信仰なのです。8月号でもご紹介した日蓮御聖人のお言葉を、ここでもご紹介いたしましょう。

 

 ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と唱へ給へ。苦をば苦と悟り楽をば楽と開き、苦楽ともに思ひ合せて南無妙法蓮華経とうち唱へゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。  

                                          (四條金吾殿御返事 第十三書)

 人生には喜怒哀楽が満ちているといっても過言ではありません。しかしそれに一喜一憂していては、結局は「苦」からの開放はおぼつかないのです。大事なことは、避けられない煩悩は煩悩として認め、ただそれが度を過ぎないよう上手にコントロールすることです。そのコントローラーとなるのが南無妙法蓮華経のお題目の信仰なのです。
 あなたがもし、欲望や怒り等で心が大きく動かされたとしたら、それは煩悩の暴走の危険信号です。そんなときは、目をつぶって一呼吸し、「南無妙法蓮華経」と三回唱えてみてください。きっと欲望や怒りが小さくなっていることに気づくでしょう。
 お題目の信仰は、煩悩に溺れない心を育むばかりか、その煩悩をむしろ人生のプラスに活かしてしまう、そういう信仰なのです。

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