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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 浄風エッセイ/第5回 ゆるぎない安心、それこそがご利益

泰永二郎会長の言葉

 

浄風エッセイ

ゆるぎない安心、それこそがご利益

■「棚からぼたもち」は落ちてこない

 今回は、「ご利益」の話をしましょう。
神さま仏さまの力によって授かる福のことを「ご利益」というのはご存知ですね。
ご利益などというと何か低俗な「ご利益信心」を思うかもしれませんが、そういう人でも、自分が思いがけない幸運に見舞われるなんてことを想像したことは、一度や二度はあるでしょう。ふと買った宝くじが大当たりで、思いがけず高額の賞金を手にするとか、さしたる努力もなしに何もかもが思い通りになるといった類の幸運です。
そんな幸運を本気で期待しているとしたらずいぶん虫がいい話ですが、世の中にはこういう「ご利益」を売り物にする宗教はいくらでもあります。またその「ご利益」に在り付こうと闇雲に飛びつく人たちも大勢いるわけで、こういうのは確かに低俗な「ご利益信心」と思われても仕方ありません。
しかし、正しい信仰は、そんな「棚からぼたもち」を期待するような甘いものではありません。いや、むしろ厳しいものといったほうが正しいでしょう。なぜならば、正しい信仰が示す生き方の基本は、人生の諸問題から決して目を逸らさず、先送りせず、自分自身で道を切り開いていくことにあり、その大きな支えとなるのが信仰だからです。
ただ自分に都合のよいことばかりを願い、その願いに応えて「ご利益」をもたらすのが信仰だと思ったら、それこそ「ご利益信心」になってしまいます。
では、「ご利益」はないのか、というとそんなことはありません。正しい信仰を人生の柱にして懸命に生きていると、それだけではない不思議な「ご利益」というものが、確かにある。このことははっきり申し上げることができるのです。

 

■「ご利益」は信仰生活のごほうび

例えば、原因不明の多臓器不全で一ヶ月間も意識不明が続き医者も匙を投げたという病人が快癒したとか、進行性の癌がすっかり消滅して医者に「不思議な人だ」と言われたとか、こういう目の覚めるようなご利益の話は私たちの信仰にはいくらでもあります。
もちろん私自身も、まさに九死に一生という大きなご利益を体験しています。これについては拙著『輝く智慧に照らされて』(まどか出版)の中で触れていますので、ここでは具体的には申し上げません。
しかし、いずれにしても信仰というものは、こういうご利益を目的の第一義に挙げるものではありません。あくまでも、真正面から自分と向き合って、自分の人生を切り開いていく、その大きな支えとして位置づけるもので、そういう生き方をしているとその結果として、時として不思議なご利益をいただくことがある。あるいは、不思議なご利益をいただいたことがそれだけで終わらず、当人のその後の生き方を根底から変える、そのきっかけとなる。
本当のご利益というのは、そういう位置づけでなければなりません。
この順序の違いは大事なところで、始めからご利益を当てにしたのでは、信仰本来の意味を見失ってしまうことになるでしょう。

 

■「ご利益」は信仰生活のごほうび

 ところで、幸運ばかりがご利益かというと、そんなことはありません。私たち信者は、時として辛く厳しい現実をも「ご利益」として受け入れることができるのです。
 自分が望んでいないことを、どうして「ご利益」として受け入れられるのか、不思議に思うかもしれません。
 私たち凡夫は、ややもすれば目先の事にとらわれて物事の本質を見失うということがありがちです。例えば、その当座は「ラッキー!」と手放しで喜んだことも、それが原因でとんでもない不幸に見舞われた、などということはよく聞く話です。反対に、思い通りにならず悔しがったことが、結果的には幸せにつながる、ということだってよくあるでしょう。「人間万事塞翁が馬」などといいますが、人生というものは長い目で見れば何が幸せで何が不幸か分からない、と。
 実は、そこに信仰の本来の意味があるわけです。信仰というしっかりした人生の柱が確立すれば、目先のことでいちいち右往左往することはありません。なぜならば、たとえその時は辛く厳しいことであっても、それは最終的に私たちを幸せに導いてくれる仏さまの思し召しの結果だと思えるからです。そこに仏さまの大慈大悲のご意思が働いていると信じられるからです。だから、わたしたちはご利益のことを「お計らい」というのです。
 信仰によって得られた絶待の安心があるから、嬉しいことも悲しいことも、すべて「お計らい」として受け止め、そこから力強い新たな一歩を踏み出していけるのです。

 

■信仰に支えられたゆるぎない安心

 長い人生を歩むうちには喜びの絶頂に浸ることもあれば、望みが絶たれて深い悲しみに落ちることもあります。
 だからいっそのこと、大それた望みなど持たず、辛いことなど無視して、いま生きている一瞬一瞬の、そんな目の前のことだけを見て過ごしていけばいい。そう考える人もいるでしょう。それが賢明だ、と。
 一方、いつも自分の人生の目標を見失わず、一歩一歩踏みしめて登る登山家のように、目標に向かって一日一日をたいせつに過ごすという人もいるでしょう。  
 どんな人生であれ、また求める道がそれぞれ違っているにしても、人が生きていくということは、なかなか自分の思うようにはいかないものです。だから時として、爆発しそうな不満を抱えたり、暗雲のような不安で胸をいっぱいにして生きていくことにもなるわけです。
 こうしたさまざまな人生ですが、どんな人生にとっても共通して大事にしなければならないことは、正しい本物の信仰を人生の柱に据えて一人一人がベストを尽くして生きること、ただこの一点です。
 信仰とは、喩えてみれば、空気のようなものかもしれません。特別に意識はしなくともそれが生命の絶対の支えとなっているように、次々に起こる不都合やアクシデントに右往左往せずに希望を抱いて前向きに生きていく、そんなゆるぎない安心を根底から支えるもの、それが正しい信仰なのです。
 そう考えてみると、実はそういうゆるぎない安心を得られたことこそが、最大のご利益なのではないでしょうか。

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