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トップページ救いの体験談 > 「信仰に支えられて飄々と生きる」 小林 栄一さん
救いの体験談

 

信仰に支えられて飄々と生きる

小林栄一さん

 

 私が浄風会に入信したのは、私たちが大東亜戦争と呼んだ、あの太平洋戦争がきっかけでした。

 私は大正15年1月19日に東京・青山に生まれました。徴兵を受けた最後の世代で、それ以降の人たちは、すべて志願兵ということになります。

 私が入隊したのは、昭和20年の7月でした。すでに沖縄が米軍によって占領され、いよいよ本土決戦という空気が強まってきたときです。本土決戦になれば、鉄道や道路など輸送機関は真っ先に破壊されることが予想されたので、私たち初年兵は入隊当初、河川での物資輸送のための船舶兵として配属されました。

 その船舶兵に特攻隊志願の命令が下されたのは、入隊1ヶ月後の8月初旬でした。特攻隊は、表向きはあくまでも「志願」の形をとっていましたが、実態は半ば強制的に志願させられるのです。

 特攻隊というと、神風航空特攻隊を想像される方が多いと思いますが、当時は、対戦車用人間地雷特攻隊や、人間魚雷の回天特攻隊などもありました。私たち船舶兵に命じられたのは、ベニヤ板で作ったモーターボートに250キロ爆弾を積んで敵艦に体当たりする海上特攻隊と呼ばれるものでした。

 幸い、出撃する前に終戦になりました。生き残ってみると、虚脱感の中に、どうしても拭いきれない思いが一つ残りました。それは、空襲で亡くなった母と妹を回向してやれなかったことへの悔恨でした。

 入隊する直前の昭和20年5月25日、東京には、3月に続く2度目の空襲があり、この空襲で母と妹が亡くなったのです。荼毘(だび)に付すにも、火葬所に運ぶ手段もなく、しかたなく、ある宮家のそばの敷地を借りて荼毘に付しました。僧侶もおらず、回向するお経を知らない父と私は、ただ黙って手を合わせるしかなかったのです。涙だけが、止めどなくあふれ出てきました。

 戦後は昭和21年9月から、吉田謙吉という学生時代の友人の家にやっかいになりながら、彼の家業を手伝っていました。その吉田家が浄風会の信者だったのです。

 荼毘に母と妹を前にして何もできなかったことに、忸怩(じくじ)たる思いを抱いていた私は、吉田の勧めで浄風会に入信したのです。昭和21年10月25日でした。お題目を唱え、母と妹の成仏を祈りながら、二度とあの悲惨な戦争を繰り返すまいと誓いを立てたことを、昨日のことのように覚えています。

 その後、吉田の妹と結婚した私は、その翌年の昭和27年に、彼の縁戚の会社に転職しました。そして、昭和49年、先代の死去に伴い、後を引き継いで経営することになったのです。会社が順調に成長したところで、後継にバトンタッチした私は、しばらくの間、経営の一線を退き、会長として日々を送っていました。

 しかし、3年後、会社が資金繰りかうまくいかず倒産の危機に直面したため、私は経営の建て直しのために呼び戻されました。

 再度、経営のトップに立って必死に采配を振るいましたが、戦後最大の不況という悪条件も手伝って、平成13年に、会社は破産のやむなきに至りました。会社の負債を個人保証していた私は、70代半ばにして無一文になってしまいましたが、長年、苦楽を共にしてきた社員を同業の社長にお願いし、ほとんど全員を速やかに再就職させることができ、ほっとしました。

 不思議なことに、人生最大の危機に直面しても、特に焦ることも落胆することもありませんでした。どんな苦しみも、すべてはご法様のお計らいであり、そうであれば、この苦しみを前向きに考え、休息をいただいたのだと信じることができたからです。実際このとき、家族や大勢の知人が、物心両面で救いの手を差し伸べてくださり、人情の温かさを感じ、静かに暮らし続けることができたのです。信仰に支えられた生き方が、いつの間にか、大きな人脈を築いていたことを知り、信仰の底力を見た思いがしました。

 信仰に支えられて飄々と生きる。それが、私の人生スタイルなのかも知れません。

 

                                               「浄風」 2006年8月号掲載

 
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