自分のこれまでの人生を振り返ってみますと、ある一点の出来事を除けば、それなりに山や谷はあったものの、比較的落ち着いた人生だったと思います。
私は滋賀県八日市市に生まれました。次男坊だったために旧家の習いで、小学校を卒業したら早々に家を出なければなりません。私は、東京・日本橋の衣料品問屋に住み込みで働くことになりました。当時の言葉で言えば小僧です。ここに15年間勤めてから独立し、小岩に店を出しました。主にベビー用品や婦人物を扱う衣料品店です。
小岩にも15年おり、43歳のときに茨城県牛久市に店も住居も移したのです。東京と違って人口が少ない上に、そのころから、ファッションに対するお客の嗜好が変化し始め、店の売上は大きく減少しました。加えて、3人の子どもたちが学齢期を迎えたこともあって、家計を助けるために、店を家内に任せ、私はタクシーの運転手を始めました。
幸い、店のほうは学校関係の大口顧客を獲得することができ、なんとか苦境を乗り切ることができましたが、タクシーの運転手は70歳まで続けました。
さて、私の人生を大きく揺るがす出来事が起こったのは小岩に移り住んで6年目のことでした。
すでに男の子が2人いましたが、その年に待望の女の子が生まれました。美由紀と名付けました。
親ばかと言われそうですが、本当に可愛い子どもでした。あるとき、子どもを抱いて町を歩いていると、すれ違いざま、女子高生たちが娘を見るなり、「あ、可愛い」と驚いたように言うのです。中には「こんな可愛い赤ちゃん初めて見た」と言う人もいました。可愛いと思うのは親の欲目だと思っていた私も、改めて娘を見ると、ただ可愛いのではなく、まるで菩薩のような神々しさがあるのです。私はうれしくてうれしくて、何度もほおずりをしたものです。
ところが生後8ヶ月を 迎えたころから、美由紀は嘔吐を繰り返すようになりました。
近所の医者はただの風邪だろうというのですが、どうにも心配で東大病院で診てもらったところ、脳腫瘍が発見されました。
私は一瞬にして地獄に突き落とされたような気持ちでした。それまで宗教には関心のなかった私が、生まれて初めて宗教に救いを求めました。
噂を聞き付けていろいろな宗教関係者がやってきましたが、どの宗教も、単に信者を獲得したいがための魂胆が見え見えで、私や家内の気持ちに対する配慮が感じられませんでした。
宗教ですらこのありさまでは、もうこの世に救いを求めることはできないとあきらめかけていたとき、近くに住む浄風会の方に出会ったのです。その方は、私の話にじっと耳を傾け、いっしょに泣いてくださいました。この方がしている信仰ならと、その日のうちに浄風会に入会したのです。
数日後、娘の手術が行われました。その日、私の家に大勢の浄風会の方がお出でになり、娘のために一心にお題目を唱えてくださいました。
残念ながら、美由紀はその日、1歳2ヶ月という短い生涯を閉じました。悲しくないといえば嘘になりますが、そうした感情とは別の充足感がありました。
後に、浄風会には次のようなお教歌があることを知り、美由紀が命をかけて親に信仰を勧めたのだと確信する一方で、浄風会の皆さんの絆の強さ、そしてその教えの深さを実感しました。
「信心の宝授けんそのために 仏はしばし子に生れ来つ」
「浄風」 2006年4月号掲載 |