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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 在家という信心/第2回 守るべき戒律はただ一つ「待つ」
泰永二郎会長の言葉
在家という信心
第2回 守るべき戒律はただ一つ「待つ」
仏教では一般的に、定められたさまざまな戒律を守り、厳しい修行を経て僧侶になるというのが建前です。その宗教の専門家として一定の徳を積んだ僧侶が、宗教の素人である一般信者を相手に教え導くという、いわば与える者と頂戴する者の上下関係を保ったまま、仏教は今日に至っているのです。しかし、在家教団である浄風会には、既成仏教(寺院仏教)のような僧侶は一人もいません。では、浄風会の信者は、だれを師としてどんな修行をするのでしょうか。僧侶が守るような戒律は定められているのでしょうか。今回は、仏教の「戒律」を通して「在家」の信仰のあり方について泰永会長にお話をうかがいました。
●自己目的化した戒律は仏教の本意ではない
―― 一般に仏教といえば、出家して世俗から距離を置いて禁欲的な戒律を守る僧侶、というイメージがあります。しかし、いまの時代に、厳しい修行や戒律がはたして必要なのでしょうか。
泰永 日本に仏教が伝えられてから、すでに一五〇〇年になろうとしています。この間ずっと、仏教は僧侶を中心にして日本人の生活の中に浸透してきたわけですから、仏教イコール僧侶というイメージは無理もありませんね。でも、一口に仏教といっても極めて多様なのです。
まず、仏教は大きく分けると、小乗仏教と大乗仏教の二つになります。
順序として小乗仏教の考え方から、簡単にお話しましょう。小乗仏教というのは、人間の苦しみは自らの煩悩に原因があるとするところから始まります。では苦から解脱するためにどうしたらいいかというと、苦の原因を作らなければいい、すなわち修行によって煩悩を断てばいいのです。そうはいっても簡単にできることではない。そこで、戒律という規制の中に自らを置いて、そうやって煩悩を断とうとするのです。
たとえば、髪の毛があるから、染めてみたくもなるし、薄くなればそれなりの工夫もしなければならない。しかし、最初から髪がなければ悩みは無用で、だから剃ってしまえ、と。僧侶のトレードマークの坊主頭には、そういう意味があるのです。
―― となると小乗仏教では、煩悩を絶つために修行するわけですから、世俗を捨てることになります。
泰永 その通りです。髪の毛の問題だけじゃない、人が生きていること自体が、すでに煩悩です。だから、一切の煩悩を断つということは、人間をやめるしかないのです。そんなことはできるわけはなく、ここに小乗仏教の限界があります。
もう一つ特徴をあげれば、そうやって厳しい修行をして目指すところは、一切の喜怒哀楽を捨て去った抜け殻のような存在ですから、たとえその域に達したとしても、あくまでも個人中心のことです。世の中をどうしようとか、他者を救おうとか、そういうことはありません。自分以外は一切関わりのないことです。
このように、戒律を守ることが自己目的化した、いかにも偏った小乗仏教に対して、大乗仏教では、仏教の神髄は世俗のなかにあって苦しんでいる人を救うことにある、とします。大乗教の戒律は、そういう力を身に付ける修行の、補助的なものとして定められているのです。たとえば梵網経の十重禁戒などがそうですが、これは小乗戒のように、いわゆる箸の上げ下ろしまでやかましく規制するということはありません。
今日の日本の仏教は、ほとんどがこの大乗仏教の範疇に入ります。
●非現実な戒律が、人々を宗教から離れさせていく
―― 数ある戒律の中で、人々にもっとも受け入れがたいのが性についての戒律ではないでしょうか。僧侶は妻帯してはならない、という僧本来の戒律がありますが、現在では僧侶の実態は世俗の人と変わりませんね。
泰永 そうですね。僧侶の妻帯は、明治政府によって初めて許可されたのですが、それこそ「待ってました」とばかりに飛びついたのだと思います。仏教の戒律に政府が口を出すというのも変な話ですが…。
そもそも、性というものは人間が生きていく上で不可欠な営みで、これを戒律で規制するということは、考えてみればいかにも不自然ですね。殺人や窃盗を禁ずるなどの、普遍性のあるルールを戒律として守るのは当然としても、人間の性に蓋をするという不自然な戒律を守らなければならないというのは、生身の人間にとっては何とも無理があります。
これがもし、仏教の絶対不可欠の条件だとしたら、大げさにいえば、宗教が生命の連鎖を否定することになってしまいます。現実的ではないでしょう。
妻帯禁止はともかくとして、人間はやはり弱いものです。外側からの規制なしで、自分を律することは実際は難しい。宗教の戒律を、一般的なモラルに置き換えて考えてみれば分かります。他人がみていなければ、守るべきルールも「このくらいなら…」と、ついつい破ってしまいます。経験者ならお分かりでしょう。禁酒や禁煙など、自分一人で黙って実行するのがいかに難しいかというのと同じです。
仏教伝来から近世まで、現代のような教育システムがなかった時代には、僧侶は教育者の役割も担っていた存在でした。そういう中で、人にはできない戒律を守る僧侶は、たしかに尊敬されていたのです。
しかし今は、そのような時代でも実態でもありませんね。
●易しい修行でなければ、救われない
―― 今でもときどき、テレビなどで荒行をする僧侶の姿を見ることがありますが、オリンピックで金メダルを取るためにトレーニングをするアスリートとどこか似ていませんか。どちらも、精神的に苛酷な試練が求められていると思います。
泰永 確かに重なる部分もありますね。精神的な試練を自ら進んでやって、高いレベルに達しようという意欲には、共通点があります。しかし、それゆえに、エリート主義とも繋がってしまう危険と裏腹です。
過酷な練習をしなくてもスポーツのすばらしさを知ることはできますし、スポーツを通して人間教育をすることも可能です。必ずしも金メダリストにならなければ、スポーツの神髄が理解できないということはないでしょう。仏道修行も同じで、禁欲的な、あるいは自虐的ともいえる荒行をしなければだめだなどということは、まったくありません。
ところで、信仰は「何を」「どのよう」に修行するかということが問題になるわけですが、それは「何の教え」に基づくかで決まってきます。浄風会は日蓮宗(広義)ですから、もちろんそれは日蓮聖人の教えに基いて、ということになります。いまここで、その教えの内容を詳しくお話する時間はありませんが、これを一口に「易修易行」といいます。だれにでもできる簡単な修行だということです。
仏様は、一切衆生を一人残らず救おうとされたわけですね。その修行が、過酷なものであったり、エリートでなければできないような難しいものであったりしたら、一人残らずなどということは絵に描いた餠になってしまいます。だから、修行は易しくなければならない。そのために、仏様はお題目を遺されたわけです。日蓮聖人は、その仏様の慈悲の結晶であるお題目を、ただ素直に信じ唱えることが仏様のご本意であり、今の時代に最も適した修行であると教えているのです。
だから、結論的にいえば、浄風会における戒律とは、ただ「お題目の信仰を持つ」ということだけなのです。もちろん、「持つ」ということに関して、そこにいろいろな教えがあるわけですが、ともかく日蓮聖人の教えにしたがって「持つ」、このことに尽きるのです。
その「日蓮聖人の教え」を、誤ることなく信者のみなさんにお示しするのが、実は会長・導師としての私の役割なのです。浄風会の会長・導師というのは、あくまでも教えの代弁者であって、根本の師は日蓮聖人ただお一人です。これを「能所なきところに能所を立つ」といいます。「能所」とは、教える側と教えを受ける側、つまり「師匠と弟子」という意味です。浄風会では、だれもが等しく日蓮聖人の弟子信者であるが、そういう信者の中から仮に師匠を立てて、信者はその師匠の下に日蓮聖人の教えを実践していく。これが「能所なきところに能所を立つ」という意味です。
●信仰と日常とのギャップに苦しみながら
―― 形式的かどうかは別にして、頭を丸めて出家する僧侶と対比して、在家信行は世俗にあって日常の生活の場すべてが修行であるといえると思います。ということは、信仰の純粋性と汚濁にまみれた日常とのギャップに苦しむということになりませんか。
泰永 そのような、信仰と日常のギャップに苦しむことこそが、実はほんとうの意味で修行なのだと思いますね。さきに、浄風会の信仰は「易修易行」だと申しました。これはもう少し説明がいると思います。この「易しい」ということは、やろうと思えばだれでもできる、そういう意味で易しい。しかし精神的には、むしろ難しいことなのかもしれません。汚濁にまみれ誘惑が充満する現実の世の中にあって、しかも純粋に信仰を持つ。つまりこの信仰には、そういう「絶対にブレないぞ」という強い覚悟が必要なのです。
これについて、法華経にはこうあります。
   
『世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し』
  (従地涌出品第十五)
    こう考えると、この信仰はけして易しいことではない。しかしまた、その覚悟さえできれば、こんな易しい信仰はない。これが日蓮聖人の信仰なのです。
日蓮聖人の時代に、四条金吾頼基というたいへん熱心な信者がいました。四条氏は北条一門の名越光時の臣でしたが、ある時この主人を教化しようとした。しかし、極楽寺忍性の熱心な信者だった光時はこれを不快に思い、このことがきっかけで主従関係は次第に悪化し、ついに四条氏は閉門蟄居の身となってしまった。さらに追い打ちをかけるように、「日蓮の信仰を捨てる、との起請文を書け。さもなくば領地は没収」と迫られる。四条氏は、もちろん言下にこれを拒否するわけですが、さすがの四条氏も信仰と世俗との板挾みに、辛い厳しい日々を送ったことと思います。
こういう中で四条氏は、身延の日蓮聖人に逐一報告し、またすべてその指示を仰いで行動し、遂には自らの信仰を貫き通し、しかも主人の怒りも解かれることになる。最高の形で危機を脱することができたわけですが、この間の聖人からの指示は「けして信仰の一線は譲るな!」という厳しいものでした。
これほどではないにしても、現代のサラリーマンにも、このような信仰と世俗との板ばさみは充分に起り得ることだと思います。
日蓮聖人ご自身は、もとよりいかなる弾圧にも屈せずに宗教的信念を貫き通したお方ですが、わたしたち在家信者も、その聖人の教えや生き方を学び、社会のなかので悩みながら実践していくことが大切です。これこそがほんとうの仏道修行であり、荒行やあるいは形式的に戒律を守るなど、まったく枝葉末節のことだと申しあげておきたいと思います。
―― 本日はありがとうございました。
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