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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 在家という信心/第3回 葬式仏教を超えて
泰永二郎会長の言葉
在家という信心
第3回 葬式仏教を超えて
仏教ブームといわれ、仏教への関心が高まっている昨今ではありますが、その一方で「葬式仏教」と揶揄するように、多くの人はもはや仏教を肯定的に見ていないようにも見えます。しかし仏教は、日本人の生活、伝統、ひいては精神に深く根をおろした教えであり、その本質は揺るぎません。
今回は、多くの人が仏教に触れる機会となる葬儀とは何かを泰永会長が語ります。そして、真の在家信仰のあり方を考察していきます。
●なぜ葬式は形骸化したのか
―― 一般の人には、仏教に対して、「葬式仏教」と揶揄するような固定的で否定的なイメージがあります。とくに仏教を形骸化させたのは、葬儀がビジネス化してしまったことにあると思います。戒名料、僧侶へのお布施などの金額が不当に高い、不明瞭だと感じた人たちが、仏教から遠ざかっているのではないでしょうか。
泰永 まず、葬式仏教と形容されてしまったのはなぜかを考えてみましょう。前提として、現代の日本人にとって、葬式だけが仏教との唯一の接点になっているという現実があります。
本来、仏教とは人が生きていく上での指針を説く宗教です。しかしその実践をしていない「僧侶」がほとんどのため、「葬式仏教」と揶揄されてしまうのです。人はだれでも、いつか必ず死ぬ時がくる。そして多くの人は、自分や身近な人の死が現実のものとなったときはじめて、好むと好まざるとに関わらず仏教と関わることになります。そういう機会を捉えて、葬儀を営む僧侶が喪主やそのご家族に仏教の本質を説いてきていれば、「葬式仏教」と揶揄されることはなかったはずです。
僧侶側にも事情はあるでしょう。かつてお寺の経営を維持してきた檀家の「お布施」が減少し続け、寺の経営が困難になってきています。駐車場などの事業に頼る寺も少なくないようです。ですから、葬儀は格好の収入源なのです。戒名料などで高収入を上げようとするのも理解できなくもない。
仏教の形骸化は、お寺や僧侶だけの責任とはいえません。一般の人たちもまた、葬儀の本来の意味を見失っていると思います。見かけだけは立派で豪華な葬式は、ただ見栄をはる場になってしまったように思うのです。
―― そもそも戒名とはどういうものなのでしょうか。そしてなぜ人々は戒名を求めるのでしょうか。
泰永 もともとの戒名とは、仏道修行を志した人に授戒したときの名前のことです。仏門に入るということは、一切の世俗を断ち切るということです。ですから生前の名前も捨てて、仏教の師匠から新たに名前をいただくわけです。したがって、仏道を志していない人が戒名にこだわるのは本来ではなく、見栄というしかありません。
このような習慣は江戸時代から広がったようですね。一般の民衆の墓碑はほとんどが俗名で書かれていましたが、武家や一部の商人など、お寺に多額の寄進をした人たちに戒名がつけられ始めたのです。スポンサーに対する寺側のサービスだったのでしょう。
現代では、俗名のままでいいと思っても「お前の家は親が死んでも戒名もつけないのか?」と親戚などに非難されてしまうかもしれません。葬儀は、普段会わない親族が集まる場でもありますから、そういう場でなかなか思い通りにはしにくいですね。少子化が進むこれからは、葬儀のあり方に口を出す濃密な親族関係は減っていくと思いますが、親族の意向で戒名を付けるという人はまだ多い。親の葬式に充分にお金をかけて最後の親孝行をした、という満足感を得たいという気持ちも大きいと思います。
聞くところによると、戒名の相場は、五十万円から百万円だそうですね。そんな高額のお金を、普段あまり関わりもなく尊敬もしていない僧侶に、何の疑問もなく出してしまうというのはいかがなものかと思います。前例にならっておけばいい、葬式は一生に一度きりだから……という考えでは、よい葬式を出すことはできません。
●葬式とビジネスは無関係であるべき
―― 今のような宗教不在の時代に戒名は必要なのでしょうか。
泰永 仏教者の私が言うのもはばかられますが、高い戒名料と引き換えに世の人々が今ありがたくいただいているような戒名ならば、それは不要です。今のままでは僧侶にお金を渡すだけですから。
私ども浄風会では戒名とは言わず、「法名」と呼んでいます。これは当会の信者に限って授与するもので、単なる形式ではありません。もちろん金額の多寡でその内容が決まるのでもありません。分かりやすく言うと、浄風会の法名とは、信者の生前の信仰生活の履歴書なのです。信仰者としての勲章といってもいいかもしれません。ですから、一人ひとりその生前の信仰生活に思いを致し、心を込めて授与するわけです。
ただし、そこから先、つまり、あの世に往かれた後のことは最終的には仏様が決めることです。私たち世俗の者がどんなに立派な法名を授与しても、仏様がどう評価するかは別問題ですから(笑)。そう考えると戒名も法名も、世俗的なものではありますね。とはいえ、浄風会の法名はその人の信仰生活の集大成ともいえるわけですから、けっしていい加減に授与することはできません。
ところで、葬儀費用というのは、病院やお寺と一体になった葬儀屋が、全体の価格を決めているようです。一部の葬儀屋を除いてやはり高額ですね。日本人は、すべて葬儀屋まかせで、葬式代については値切ったりはしませんね。私たちのように日頃から信仰の中で生活していると、よい葬式であることと、お金を使うこととはまったく関係がないということが分かるのですが。
浄風会で行う葬儀は、祭壇や飲食などにかかる実費は別にして、すべて「浄財」として施主のお志しを上納していただくことになっています。もちろん式典は、導師をはじめ一切のお手伝いのすべてが、浄風会の信者によって心を込めて執り行われます。一種のボランティア的な相互扶助の精神といったらいいでしょうか。これが葬式ビジネスに染まっていない、本来の葬儀のあり方なのです。
●宗教的儀式としての葬儀の復興を!
―― 形骸化した「葬式仏教」への反発から家族葬や音楽葬などの宗教性のない「自分らしい」告別の式をしたいという人が増えています。これもまた葬式ビジネスになっています。
泰永 「葬式仏教」から人々が離れていくのは当然のことでしょう。そんな形だけの葬式に満足する人はいません。それに、今は消費者意識の高い人が増えているので、明細がはっきりしないわけのわからない支出への反発は大きい。「なんで葬式代にこんな高いお金を払わなきゃならないのか」。この疑問は正しいと思います。しかしそれへの反発による宗教性のない「自分らしい」告別式がまた、ビジネスに誘導されてはいないでしょうか。これもまた、「死」そのものを軽視する風潮の表れだと思います。人が死んだとき、どのようにお別れをしたらいいのか。この死別のあり方を考えることは、まさに信仰を考えることなのです。
葬儀とは、亡くなった人を、あの世に送り出す宗教的儀式である、と言われるゆえんはここにあります。ですから、執行する人も列席する人も含めて、葬儀に本来の宗教性を取り戻さない限り、死者とのお別れがその場限りの単なるセレモニーで終ってしまうのではないか、と思うのです。
仏教の教えを知らない多くの人にとっては、「あの世」は、あるのかないのかわからず漠然としているものです。だから切実に思えないのでしょう。
人は死んだらどこにいくのか? この問題を考えたことがない人はいないでしょう。そしてこの問題を考え抜いてきたのが、仏教であることは歴史的事実です。普通の人は、普段の生活で死を深く考えることはありません。しかし、信仰者たる私たちは常に考えている。私たちは、死んだ先の世界をしっかりと認識しているのです。
死後の世界を深く考えれば考えるほど、今生での生を大事にするようになるのです。今生をよりよく生きることが、死後の世界での生き方に繋がると考えるからです。だから、葬儀を「今生の終着点」であると同時に「次の生への出発点」と位置づけているのです。
次の世がある、しかもそれはすばらしい世界だ。そう信じて安らかに死を迎えられる信者でありたい。これが浄風会のすべての信者の願いなのです。
―― とくに戦後生まれで、科学などの合理主義の教育を受けた人には、あの世のイメージが乏しいようですね。
泰永 私は、親から「嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれるぞ!」と言われて育った世代なんですよ(笑)。
父が入信する前、私はお寺の経営の幼稚園に通っていました。もう五十年も前のことですが、そのお寺の薄暗い本堂の脇の壁に、地獄絵が描かれていたことを今でも覚えています。時々そのまえに座らされて、住職の園長先生が地獄の話をする。こわかった!(笑)。針の山、血の池の話を聞かされるわけですからね。当時、そういう幼稚園は特殊ではなかったと思います。道徳を伝えるという機能をお寺がまだ果たしていた。
「悪いことをすると死んで地獄に落ちる」という教育は、日本では古くからいわれてきました。悪いことをしたら自分が結局苦しむ、自業自得という教えです。だから「まっとうに生きなさい」と。
現代は、「悪いことをしたら警察につかまる」「捕まえられなければよい」としか考えられない人が増えてしまった。少年が高齢者を理由もなく行きずりで殺害する事件が多発しています。なぜこんなことが起きるのか?死に対する想像力の欠如なんだと思います。
死への畏れがないから、殺したらどうなるのかという想像力がなくなってしまう。恐ろしいですね。
目に見えない超越的な存在がいつも自分の行動を見ている、という畏れの感覚のない人が増えていることとも関係しているのでしょう。
葬儀の本質は、死者よりもむしろ送る側の方にあると思います。つまり、葬儀を通して送る側が死とどう向き合おうとするのか、そういう宗教心の涵養にこそ意味があるのです。そして私たち浄風会の葬儀は、まさにその実体験の場なのです。
送る側にとっては、死者は、「未来の自分」に他なりません。だから死は他人事ではない、という切実感を共有できるのです。葬式ビジネスとはまったくちがう誠実さ、真剣さが、浄風会の葬儀にはあります。
―― 葬儀を執り行う、あるいは参列するという行為が、信者同士の相互扶助になっていると同時に、自身の宗教心を育てている。
泰永 そうですね。自分の問題として、人の死と向き合うことができますから。葬儀に立ち会った参列者は、だれもがみな喜びを感じます。分かりにくいかもしれませんが「いいお別かれができた。よかった!」。そういう確信があり、その場に立ち会えた満足感をお互いに共有できるのです。これが、本来の葬儀なのだと思います。確かに、その人の死は悲しい。しかし、それを乗り越えるだけの前向きな受け止め方ができる。それが浄風会の葬儀です。
現代はほとんどの人は病院で死ぬ時代です。子どもたちが死に立ち会う機会は少なくなってしまった。日本社会には、人の死を見つめてきた文化がありました。現代は、死を考えない、見ないようにしていますね。これでは死について考える心が育ちません。
死に向かっている人の厳粛さを見つめてほしい。浄風会の信仰を実践している人たちは、「信心していると死の恐怖がなくなっていく」とおっしゃいます。死に近づくほどそういう心境になっていきます。さらには「死ぬのが楽しみなんです」というお年よりさえいるのです。
   
箸片方持ってはゆけぬ娑婆の物
  身に添うものは功徳ばかりぞ
    これは日扇大徳のお教歌です。あの世には、箸の一本すら持って行けない。持っていけるのはただ生きている間に信仰で積んだ功徳だけだ、という意味です。
いかに信仰を持って生き、そして死んだか、それがいちばん大切なのです。その「旅立ち」を補助するのが、信者たちで営まれる浄風会の葬儀です。お花を添えて、こころのこもったお題目で送り出す。そしていつまでもいつまでも、お題目を唱える度にあの世に送り出した死者とまた会える。これこそが本来の葬儀のあり方であり、また在家信行のすばらしさの一面なのです。
―― 本日はありがとうございました。
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