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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 在家という信心/第4回 「家のぬくもり」を在家信仰で取り戻そう
泰永二郎会長の言葉
在家という信心
第4回 「家のぬくもり」を在家信仰で取り戻そう
いま日本の家庭と家族はさまざまな形で変化しています。日本の文化、伝統、歴史のなかで育まれた「家」のあり方は、時代の変化のなか、機能不全を起こしているように見えます。親子をめぐる事件も頻発しています。今回は、「家」を再生させるために何が必要なのかを考えてみました。
●食卓の変化から家族が見える
―― 先日、NHKの番組で、家族の食事の風景が変化していることが報道されていました。いまの親は、食べさせたい食事ではなく、子どもが望むものを食卓に出しているというのです。健康によい日本の伝統食を味わってほしい、という親心よりも、子どもの食べたいものを優先することが主流になっている。しかも、子どもだけの「孤食」が進んでいる。このままでは、食育ができないばかりか十分な躾ができない。
食卓の変化ひとつをとっても、「家」のありかたが変化しているように感じとれます。
泰永 家の変化を考えるために、家族という社会的な単位が、会社などの他の社会的単位とどう違うのか、をみていきましょう。
際だった違いは、家族は血縁によって構成されているということです。まさにかけがえのない関係として家族ひとりひとりがいる。しかし、家族のつながりとはそれだけではありません。現代の家族をみていると、たんに血のつながりがある関係でしかない。家族から大事な何かが欠落してしまったように思えます。
まず、戦前までの家とはどういうものだったのでしょうか。両親がいて長男が家を継ぎ、その家の家風を受け継ぎ守っていく。それが家のひとつのあり方としてあった。
家風といっても、厳格なしきたりのような格式張ったものとはかぎりません。一般家庭のどこにでもあった、例えば「親父の生き方」のような、言語化されていないけれども、確かな肌触りを感じられる存在感です。そのような父の存在感を、食卓などの生活の場で感じ取った子どもたちが、親の生き方から学んでいく。
これは、家族が経済の基本単位であることと密接に結びついていました。わかりやすくいえば、あそこの家はそば屋だ、こちらの家は八百屋だと、かつては生業と家とが不即不離の関係にあり、それが家風というようなものを生んでもいたのです。
こうした時代には、子どもにとって、親の生き方を学ぶことが社会の一員として成長することを保証するものでした。しかし、技術の進歩や経済の発展などで、親の生業が子どもの職業選択と結びつかなくなったり、サラリーマン家庭が二代・三代と続いたりすれば、子どもにとって親の生き方とは、学ぶ対象どころか、時代遅れの見本のように見えることすらあるでしょう。こうしたなか、多くの家庭で、家風などの伝統や文化が風化し、消滅していったように思われます。
しかも、社会はどんどん便利になっていく。家事労働を軽減させる家電製品や、外部のサービスを利用することで、一人でも食事ができるようになっていきました。
ともに食を楽しむ家族がいなければたとえ食卓をともにしていても、それは「孤食」なのです。孤食はひとりでも生きていくことができるという錯覚をもたらします。昔は、家族は支え合わないと、物理的に毎日の食事ができなかった。が、現代では互いを必要としなくなっています。家族ひとりひとりを結びつけている、絆やよりどころがなくなっているのです。
●家風という伝統を見直す
―― 昔は家ごとにみそ汁の味が違う、ということが誇りでしたね。みそ汁一杯の中にその家の文化が表れている。いまはそのような文化継承をすることがたいへん難しくなっている。
泰永 それでもお正月の雑煮だけは、かろうじてその家庭の味が残っているようです。雑煮の外食はしないでしょうし、コンビニでもお雑煮は売っていない(笑)。でも、お雑煮も手作りではなく、購入するようになるのも時間の問題なのでしょうね。寂しいことです。
ところで、その家の文化とは、これを継承するんだという信念があってはじめて存続するわけです。誇りとか信念といってもいいでしょう。そういうものがないから、マスコミなどの情報に頼る。マスコミはただ無責任に煽るだけですから、こちらに信念がないと右往左往するばかり、という悪循環がありますね。
私たちが自覚しなければならないのは、家族よりも経済や効率の価値観を優先にして割り切ってはいけないということです。
戦後の日本は、経済効率を優先にしたため、社会や家族のあり方を変えてしまった。この歪みが、現代社会の暗い部分を形成しているのです。経済や効率ではない、別の価値観で家の柱を立てるべきなのです。その柱とは、正しい信仰をおいてほかにはありません。
父親の権威が失墜したといわれる時代ですが、家には大黒柱が必要です。大黒柱がないと、ひとりひとりの人間が家族という形を借りて共同生活しているだけになってしまいます。昔はそれが父親だったわけです。といっても、戦前の家父長制に戻せということではありません。真の「個」の意識、自立する精神です。そして、その中心の柱になりうるのが信仰です。
単なる共同生活はもろい。家族の固い絆をあらたに作り変えるためにも、戦後の日本が過小評価してきた信仰の力が必要なのです。家族の一人ひとりがそこに向かい、いのちあるものを大切にし、先祖を敬う。そういう信仰心の原点にもどることで、あらたな家の伝統文化をつくることができるのです。
●在家信仰が家風を復活させる
―― しかし、家の根幹には信仰が必要であるという考えに対するアレルギー反応が、今の日本にはあるのではないでしょうか。
泰永 日本では江戸時代にできた寺請制度によって出家仏教が固定化・形骸化されました。いったん檀家信徒として組み込まれると、信仰の自由がなくなり、宗教が形式化しました。信仰が「イエの宗旨」や「ムラの宗教」になってしまい、その「しがらみ」にがんじがらめになってしまったのです。
この動きに対して、二月号でもお話したように江戸時代末期に、長松清風・日扇大徳(1817〜1890)が登場し、信仰を寺から個人に復権しようという改革運動を興しました。これが現在の浄風会の「在家信仰」に繋がっていくわけですね。
習慣や形式的な信仰では、どのように仏教を信仰しようと意味がありません。その個人にも家族にも力を与えることはありません。
戦国時代に農民が起こした一揆など、信仰の力に手を焼いた時の権力はこれを恐れ、宗教を骨抜きにする政策をとったのです。これは現代に至るまで変わっていません。日本人の精神構造に大きな影響を及ぼしています。このような信仰を無力化する政治が、日本社会のすみずみに浸透した結果、仏教の宗旨の違いすら誰も気にしなくなっています。だから、宗旨の違いを深く吟味して、信仰を主体的に選び取るという日本人はまだ少ないといわざるを得ません。
―― いま、日本では年間の自殺者がこの数年三万人を超えています。会社に身も心も捧げた企業戦士の年代の自殺が、自殺者数を増やしていると言われています。家族が自殺を止める力になっていないのでしょうか。
泰永 自殺者の増加は、国家レベルの問題といえますね。ご指摘のように、家族の力の低下と、自殺者増加は関連していると思います。昔は、どんなにつらいことがあっても家族がいるから、と頑張れた。家族が自殺を止めるブレーキ役を担っていた。いまは、家族に自殺を止めるだけの力がなくなっているのです。
家族とは、人間が生きるということの意味を考えさせるだけでなく、自分の生がともに生きる妻(夫)や子という「他者」に与える影響を実感する場なのです。自分と一緒に生きる人がいるんだ、だからがんばろう、という気持ちにさせてくれるのが家族なんですよ。
自分の体は自分だけのものではない。家族がいるから、健康に気をつけて働こうと思う。このような生きている実感や、生命の躍動感を得るためにも、信仰心が身近な生活の中で大切になるのです。
テレビや新聞の報道を見ると、家族の中での虐待、殺人という痛ましい事件ばかりです。
このような事件は、「私は家族なしでもひとりで生きられる」という人が増えてしまったからではないでしょうか。家族は互いに心配させたり迷惑をかけあっていいのです。それを受けとめられるのも、家族なんです。この関係をわずらわしく重圧だと感じてしまうから、すべてを清算しようとしてしまうのです。
●家庭は在家の信仰を育む場
―― いま日本では、未婚、非婚の男女が増えて、家族をつくろうとしないことが社会問題になっています。これはどう考えたらよいのでしょうか。
泰永 高学歴で高収入の人は、同じような条件の人との結婚を望み、あるいは、結婚すると独身時代よりも生活水準が落ちると計算して、結婚しない人も増えています。
たしかに家族をもてば、独身時代よりも経済的負担は増えるでしょう。自分の思いどおりに振る舞うことも多少は制限されます。しかしそれ以上に、共に生きる人のために、その人とともに苦労することの喜びも想像して欲しいですね。
日蓮聖人は夫婦について次のように書き遺されています。
   
「夫は柱の如し、女は桁の如し。柱倒れなば桁地に堕ちなん。
  家に夫なければ人の魂なきが如し」
(千月尼御返事)
    (──夫は家にたとえれば柱であり、妻は桁(梁)である。柱が倒れれば、桁は地に落ちる。家に大黒柱がなければ人に魂がないと同じようなものだ。)
聖人は、夫婦は一心同体であることを繰り返し信徒に説いています。
互いの給与を確認し合い、共通の趣味をもち、より高水準の生活を追及するのに汲々としている現代人にとっては、このような言葉はまるで別世界のことのように聞こえるかもしれません。しかし計算をいくらしたところで、理想の夫婦関係、すばらしい家庭を築くことはできないでしょう。夫婦にとって、家族にとって、いちばん大事なことは、お互いに信頼し合い敬い合う心をベースにすることなのです。
―― 浄風会の在家信仰の特徴は、日常の生活そのものが修行であると思います。家庭での生活が修行になるということですね。
泰永 私達の信仰はけっして難しいものではありません。修行といっても、難行苦行などは一切いたしません。
仏道修行とは、本来日常の生活の中にこそあるのです。社会という世俗の中に生きていると、さまざまな問題に直面します。ときには生活と信仰と互いに相反する問題にどう対処したらいいか、思い悩むこともあります。そういう心のせめぎ合いを一つ一つ克服していく中に、本当の修行はあるのです。
欲望が渦巻く社会の中で生活をし、その中で信仰を堅持していく。これが私たちの修行です。山にこもって滝にうたれ、あるいはひたすらお経を読んでみても、それは世俗から遠ざかっただけ。世俗に戻れば、依然として未解決の問題が待っているのです。
社会の中で自分の苦悩や煩悩と正面から向き合うことで、仏の教えを本当に自分のものにできる。だから在家信仰に意味があるのです。
私は、そういう在家の信仰を育む環境としてもっともふさわしい場が、家庭であると思っています。
また、経済と効率を優先する社会を変えるためにも、まず家族の再生から取り組む必要があると思います。
少し前の父親たちは、毎日まっくろになって働いていました。経済的には十分でなくても、父親たちは一家の大黒柱として芯の通った生き方を示してきたのです。いま、そういう家族のあり方をもう一度再生させる必要があるのです。
現代社会は、家族の絆よりも経済価値を信仰のように優先し、その結果あらゆることが混乱しています。本来の信仰を生活のベースにして家族の絆とすばらしさを再発見してほしいですね。
―― 本日はありがとうございました。
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