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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 法華経からみた教育論/第3回 生まれることの意味
泰永二郎会長の言葉
法華経からみた教育論
第3回 生まれることの意味
仏教では、生・老・病・死を人間の基本的な苦悩(四苦)と捉えています。今回はその中の「生」について考えます。
最近、代理母出産や病院が赤ちゃんを預かる「赤ちゃんポスト」の導入など、今日的な「生」の問題が次々と浮かび上がっています。その背景には急激に少子化がすすむ日本の社会状況があります。それぞれに、生命の尊厳とは何かを突きつける重要な課題です。泰永会長には、現代人の生命観を法華経の視点から読み解いていただきました。
●「赤ちゃんポスト」は許されるのか?
―― 少子化になり、また助産士さんの手伝いによる自宅での出産も減り、今は病院での出産が大多数になっています。出産の場面を見る機会も減り、生命が生まれることに実感が持ちにくい人が増えているのではないでしょうか。
はじめに、今、話題になっている熊本のカトリック系の慈恵病院で行われることが決まった「こうのとりのゆりかご」(通称「赤ちゃんポスト」)について伺います。何らかの事情で育児ができない親にかわって、子どもの命を緊急避難的に守るねらいのようですが、欧州の国では昔からあったシステムだそうです。
泰永 遺棄される子供の命を守る緊急避難という意図だとは思いますが、これはそういうことだけではすまされない問題を孕んでいると思います。
まず、「こうのとりのゆりかご」というソフトな名前で、本質を見失ってはいけません。実態は「捨て子」といえます。捨て子は立派な犯罪(保護責任者遺棄罪)です。これが許されるとしたら、捨て子を合法的に認めるということですから、育児放棄を助長することが懸念されます。社会的に認めるか否か、充分な議論が必要でしょう。
それよりも何よりも、自分の力では育てられない赤子を産んでしまう。そのことから論じるべきでしょう。
子どもを産んで一人前の大人に育てあげるということは、たいへんなエネルギーを要するわけです。そういう覚悟ももたず、感情の赴くままに、気がついてみれば子どもができちゃった、と。その時になって、さあどうしよう、とても育てられない、ということになる。
現代の捨て子は、ほとんどがこのようなケースではないかと思います。捨てられる子どもの命が大切なことは当然のことですが、親としての最低限の自覚もないまま、親となってしまうことを放置していては、何の本質的な解決にもならないでしょう。産む側の親の意識について、もっと議論をしないといけません。
もちろん、覚悟のうえで産んではみたものの、どうしても育てられない事情が生じてしまったという人もいるでしょう。しかし、そのような真剣な問いを放置して、産んじゃったけど育てられないからといって預ける、しかも匿名で。これでは筋が通りません。
―― この背景には、命に対して厳かな感情をもつということがなくなっている社会があるのでしょうか?
泰永 たしかに、生命の尊厳を軽視する傾向にあるといえます。私が子どものころまでは、多くの日本人の意識は、子どもは“授かりもの”でした。今は子どもを“つくる”という意識に変わってきているといえます。ここに問題の根っこがあります。
途上国などに今でも見られますが、昔は避妊の方法など知らなかった。そのため生活に困窮した夫婦が、産まれた子どもをやむを得ず間引きした、などという悲惨な話も残っています。現代は避妊の知識も充分で、いくらでも生まないようにすることができます。そういうことから、子どもを“つくる”とか“つくらない”という言い方になってしまい、次第に“授かりもの”の意識が消えていったのですね。
いずれにしても、自分の産んだ子どもを匿名で病院に託すわけですが、親の責任はどこへいってしまったのですかが、問われますね。
●代理母出産という生命操作
―― 次に代理母出産についてお伺いいたします。最近は、体外受精などの生殖補助の技術が急激に進歩した結果、自分の遺伝子をもった子どもを産みたいという人の願いがかなうケースが増えているようですね。
一例ですが、タレントの向井亜紀さんと、プロレスラーの高田延彦さんの夫婦が、アメリカで代理母出産を依頼して、双子の子どもが生まれました。自分たちの戸籍に子どもとして入れたいと裁判所に申し立てたところ、最高裁判所は却下しました。夫婦とも有名人のためか、おおきくマスコミで取り上げられました。
こうした事例は、法律論もありますが、進歩する医療技術と、従来の社会通念とのギャップの表れだと思います。宗教者として、この問題をどうお考えでしょうか?
泰永 どうしても子どもが欲しいという思いはわかりますが、結論をいえば、これは医療技術の進歩による明らかな生命操作だと思います。そういう生命操作をしてまで自分の子どもがほしいというのは、親のエゴといわざるをえません。
たしかに、このケースでは生まれてきた子どもは日本国籍がとれない。でも、このような事態になることは事前にわかっていたはずです。現在の日本の法律では、海外で外国人の代理母で出産された子どもについては、日本国籍を取得できないことは明らかでしたから。
向井さん夫婦は、正直に代理母に依頼したと公表した。そのオープンな態度は立派かもしれませんが、ほんとうに子どもの将来を考えてのことだったのか疑問です。それとも、有名人の自分たちが公表したからには、きっと世間が応援してくれるにちがいないとでも考えたのでしょうか。
ほしいのに産めない多くの人たちにとって残酷な言い方かもしれませんが、まずは産めないという事実を受け入れることが大事だと思います。そこからあらためて生きるということの問いが始まるのです。
代理母問題は、臓器移植と同じような構造をもっています。医療技術が進歩して可能になったから、安易にしてもいい、という問題ではありません。
代理母も、臓器移植も、かならず商売に利用されます。表向きは人道的な立場だといっても、このような高額な医療を受けることができるのは、お金のある一部の人に限られますし、そういう人の弱みにつけ込んで金もうけを企む人が必ずでてくるわけです。
―― 代理母出産には、子どもの側の視点が欠けているという問題もありますね。
泰永 その通りです。そこに親のエゴを感じるのです。
代理母出産でも、科学的に父と母の遺伝子を受け継いだ子どもが生まれると言われています。しかし、受精卵が、第三者の子宮内で育つのですから、その代理母になった母体の影響をまったく受けないとは思えません。
夫婦は、卵子と精子の提供だけをして、産むのは代理母。こういう出産が公然と認められる社会は怖い。
人間は現実を受け入れることから、工夫、勇気、知恵が生まれ、そうやって最善の生き方を決めていくのです。代理母出産には、現実を受けいれるという考えが見えません。
●子はつくるのではなく「授かる」もの
―― 産めない自分を肯定できないというある種の執着心から、代理母出産を求める気持ちが出てくるのだと思います。しかし医療技術の発展によって、生命操作がますます広がっていくような気配です。なにか歯止めの方法はあるでしょうか?
泰永 先ほども触れましたが、生殖医療の技術の向上や普及によるマイナス面として、子どもは“授かるもの”から“つくるもの”に変化したということがあげられるでしょう。つまり、子どもを産むことは人間がコントロールできる、と考えるようになったということです。
しかし、はたしてほんとうにコントロールできるのかといえば、答えはノーだと思います。
考えてみるとおかしなもので、純真無垢の象徴ともいうべき子どもというのは、実は人間の煩悩の代表的な行為によって生まれてくる。そこに人間の業というものを感じてしまうわけですが、そういう過去から積み重ねられた業を背負って生まれてくる命は、どう考えても人間が作った作品であるわけはありません。
―― 「生まれる」という生命に対する尊厳の意識が変わったのでしょうか?
泰永 “つくる”という意識が定着すると、そこから私有物ととらえる意識が生まれてくるでしょう。もう少し大げさな言い方をすると、自分が神の立場になってしまうわけです。虐待も育児放棄も、過保護も過干渉も、あるいはペットのように自分好みに育てようとすることも、自分が“造物主”ならば許されるわけです。
私は、あらためて“子は授かりもの”という意識を取りもどす必要があると思います。
子をもつ親ならば、だれでも経験することですが、子どもはつくろうと思ってできるものではないのですよ。たしかに、両親がいて初めて子どもが生まれるわけですが、それがすべてではありません。自分が親になってつくづくそう思いますね。親とは、子どもを世に送り出すためのお手伝いをしているだけなのではないか、と。
この思いは自分が子育てをしてみて、より強くなりましたね。親とは違う人格に育っていくわけですからねぇ。子どもを自分の所有物だと思ったことなど一度もありません。子どもは本当に不思議な、とてもかわいい生き物なのだと思いますよ。
現代のひずみの一つは、経済成長によって、子づくりや子育てまでも効率で考えるようになってしまったことでしょう。子どもが社会に役立つ、という意味が変わってしまった。ただ健康に生きているだけでありがたい、という思いから、経済的な面で有能な人間になって欲しい、という思いに変質してしまった。
そうですね。私が子どものころは、子どもが生まれない親は、養子をとることがまだ普通に行われていました。代理母を考える前に、あらためて養子縁組制度をもっと見直す必要があると思います。
●子は命をつなぐ福子です
―― 親と子という関係だけではなく、縦にも横にももう少し広げた大きな視野から、命というものを考える必要があるように思いますが。
泰永 まったくその通りです。命とは、まずはいちばん身近な、家族との関わり合いのなかで考える。これは大切ですね。さらに、生命の長い歴史のなかに、今日の自分の命がある。そういうことも時に触れて考えてみる必要があると思います。
たとえば、先祖の誰か一人でもこの世に生まれなければ、あるいは誰か一人でも違っていたら、今の自分はいない。そう考えると、自分という存在はほとんど奇跡といってもいい。過去の流れは変えられません。一方、未来に目を向ければ、今の自分の生き方が、これから生まれてくる多くの人たちに少なからぬ影響を与えていく。そこに生命の連続性を感じて欲しいのです。
人間は自分という個だけでは生きることはできない。個は個だけで成り立っているわけではないのですよ。
―― 浄風会では妊娠された時から「安楽産福子(あんらくせんぷくし)」という安産の祈願がありますが、どういう意味なのでしょうか。
泰永 それは『法華経』の法師功徳品の「安楽にして福子を産まん」の一節からきています。生まれてくる命への畏敬の念と、命の安らかな継続を願う気持ちをこめて、そう祈願します。自分も、生まれてくる子も、生命の連続の中にあるという感覚ですね。
親と子の関係だけしか見ない世の中ですが、法華経は「自分は、世界中のあらゆる人と深くつながっている」と教えています。「安楽産福子」は、そういう命の誕生を願っての言葉なのです。
―― 生命の連続性について、法華経の中に、「今この三界は、皆これ我が有なり。その中の衆生は、悉くこれ吾が子なり。しかも今この処は、諸の患難多し。唯我一人のみ、能く救護をなす」(譬喩品)という言葉がありますが、この意味するところについて教えてください。
泰永 法華経でいう生命の連続性とは、人間だけでなく、ほかの動・植物にも及びます。動物も植物も、すべての生きとし生ける物は密接に関連して生かされている。これは比喩ではありません。法華経は、存在しているものすべての奥に「仏」をみるのです。生命のなかに仏の性質が宿っていて、それは人を超えてつながっている。命を中心とした全体のネットワークという見方です。
「吾が子なり」とは、仏さまがすべての生命の面倒を、責任をもって引き受けていく。「我が有なり」とは、仏さまが所有するという意味ではなく、あらゆる命に責任を持つという意味で、すべての生命を救おうということです。
それに対して、キリスト教では、神が人をつくったと教えます。動物や植物は、人間の支配下になります。親が子をつくるという論理は、この線上のことでしょう。
―― 仏教はすべての命を歓迎し、一緒に幸福になっていこうという教えですね。そして、人間として生まれてくること自体が稀有なことなのでしょうか。
泰永 その通りです。私たちは、今たまたま人間に生まれてきたわけですが、それは実に稀有なことなのです。私たちの命は、六道輪廻といって六つの迷いの世界を転々とさまよ彷徨っている。そういう中で、ほんとうにたまたま人間に生まれてきた。そして百歳に満たない短い人生を終えて、また他の迷いの世界に帰っていく。そう考えたとき、かけがえのない命のほんとうの重みを知ることができるのです。
現代人は、短絡的に人間中心でしか見ないようになってしまった。「次も人間に生まれ変わる」と当り前のように信じていますが、そんな甘いものではありません。
―― 生命操作をしようとする、代理母出産や臓器移植は人類の長い歴史でみても、極、最近になっての意識の変化ですが……。
泰永 技術が進歩したといっても、所詮は小賢しい人間の知恵にすぎません。いつか、絶対にしっぺ返しがきます。自分が神であるかのような錯覚で、生命操作などという畏れ多いことをしてはいけない。畏れ入って生きるという謙虚さを忘れてはなりません。
なによりも、大人の責任として、生まれてくる命が生きることに希望をもてる社会にしていきたいですね。
―― 本日はありがとうございました。
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