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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 暮らしの中に信仰を/第3回 老いてなお、ゆるぎなき人生
泰永二郎会長の言葉
暮らしの中に信仰を
第3回 老いてなお、ゆるぎなき人生
老いることは辛いこと、でも歳を重ねないとわからないことがあります。
「法華経を信ずる人は冬の如し。冬は必ず春になる」の日蓮聖人は述べました。皆さんは人生の四季をどう感じますか。今回は、心から元気になるメッセージをお伝えします。
●「老い」が切実な問題となるとき
―― ある年齢になるとがくんと「老い」を意識するようになったという話をよく耳にします。いつかは老いることは頭でわかっていたとはいえ、自覚すると辛いですね。
泰永 私も五十代の後半になって、その辛さをひしひしと感じるときがあります。そこで考えたのですが、老いとは単に年をとったという現象をいうのではないということです。老いというのは、ひとたび始まったら後は最後まで右肩下がりなんです。元気で仕事をしているつもりなのに疲れが抜けなかったり、突然腰が痛くなったりすると、ふと、自分もやっぱり年かななどと思う。そして、元気がいつまでも続くとは限らない、いや二度と若返ることはないんだと痛感する。それが「老い」というものではないでしょうか。皆さんにもそんなご経験がありませんか。
―― 確かに、ある程度の年齢になると活字がかすんだり、階段の上り下りがおっくうになったりして、自分はこんなはずではなかったのに、と感じられる方も多いようですね。
泰永 若い若いと思っていても、私も肉体の老化を否応なく感じることがあります。そこでなんとか、衰えを食いとめようと、皆さんの目に見えないところで、実は相当努力しています(笑)。ただし食事や運動に気を使うにしても、苦にならないようにすることがコツでしょうね。誰にでも、体力的に成長し続ける右肩上がりの時期は終わったと感じる時期があって、この折り返し地点を過ぎたらもう引き返せません。この下り坂を、なるべくなら水平維持したい、それが無理ならせめてゆっくり下りたい、そう思っていろいろと努力しているわけです。私は、八十五歳くらいまでは頑張るぞ、と公言しています。そのためにも肉体の手入れを怠らないようにしています。
●紅葉の美しさ
―― 特に若いころと比べて気力が落ちたと言う人もいますが、どう感じますか。
泰永

何かの折に肉体の衰えにガッカリしてしまって、一気に気力や知力まで衰えてしまう人は少なくないと思います。ある程度の年齢になると肉体の衰えの先に、漠然とではあっても、「死」が現実のものとして見えてくる。そのとたんに、死ねば終わりなんだと思ってしまう。そうなると生きていること自体に希望が持てなくなる。生活に張りもなくなって、気力もガクッと落ちてしまう。周りから見ると老け込んだと見えるでしょうね。

新緑の季節になりますと、草木の若葉が匂うのを感じます。瑞々しい緑の匂いに命の輝きを感じますね。一方で、秋の紅葉もまた美しいものです。紅葉は枯れる寸前の葉です。シャンソンに「枯葉」という名曲がありますが、フランス語で「枯葉」は直訳すれば「死んだ葉」となるそうです。哀しい訳ですね。

ところが、日本人は古来、秋の紅葉の美しさを愛(め)でてきました。それというのも、秋になって紅葉が深まり、やがて冬を迎えることにもの悲しさを感じながらも、また来年の春には、若葉が萌えだして花が咲くということがわかっている。春夏秋冬は、春に始まって冬で終わるのではなく、冬の次には必ずまた春がやって来るのです。そういう季節の循環を知っているからこそ、紅葉を美しいと感じられるのです。

ところが、多くの人は、自分の人生は春夏秋冬で終わりと思い込んでいます。紅葉を美しいと感じる人でも、いざ自分のことになると、人生の黄昏(たそがれ)を迎えて、もう自分は終わってしまうのか、と悲嘆に暮れてしまう。自然は循環しているということを承知しているのに、自分の命についてはそうは思えない。人間は「死」ですべて終わりだと思うから、不安になったり、もがいたりする。しかし肉体的に老いても精神はかえってきりっとして若さをたもっているご信者を、私は何人となく知っています。自分もそういう老い方をしたいとおもいます。私たち浄風会の信者は、「死」ですべてが終わりだと思っていない、「死」の先に来世がある、そう信じているからです。
●老いて学べば、死して朽ちず
―― 精神が若返るというのにはどんな秘訣があるのでしょうか?
泰永

幕末に活躍した儒学者・佐藤一斎(一七七二〜一八五九)という人が面白いことを言っているのでちょっとご紹介しましょう。
「少くして学べば、壮にして為すあり。壮にして学べば、老いて衰へず。老いて学べば、死して朽ちず」(『言志晩録』より)
初めの二つは、わかりやすいですよね。子どものころに勉強しておけば大人になってから仕事やなにかにそれを活かすことができる。大人になってから勉強すれば、老いても衰えない。なるほどそうだろうな、と納得します。

けれども、最後の「老いて学べば、死して朽ちず」というのはどうでしょうか。老いてからも学べば、死んでも朽ちることがない、というのですが、いったい何が朽ちないのでしょうか。はたして、佐藤一斎はどういうつもりでこの言葉を残したのだろうか?と考えるとなかなか味わい深いものがあります。いや、それがどういう意味であれ、老いてもなお学ぶという気概はぜひ真似をしたいところです。

私はいろいろな方とお会いします。そうすると、よく感じることがあります。自分の事以外に生き甲斐を持っている人、自分が他の人のために役に立っている、また社会的に役に立っている、そんな生き方をしている人は、体力が衰えたからといって老け込んだりしないのです。ご自身もそう思ってらっしゃるでしょう。そうやって生きている人はいくつになっても輝いてます。私の周囲には、死ぬことをちっとも恐れていない方がたくさんいます。もう自分の事では何の欲も起らない。ただご信心をたもち、そして人のために役立ちたい。そういう方が実に多い。この世界が本当によくなりますようにと、そればかりを願ってご信心をしている方の姿勢は、それは立派なものですよ。
●欲を持って老いるとは
―― 老いて欲がなくなった人もいれば、ますます強欲になる場合もありますね。
泰永

人は独りでだけで生きているのはなく、ほかの人たちと支えあっています。そのことを深く実感し、さらにもっと大きなものの中で自分というものが生かされているんだと真に思えたとき、欲望は自分のためだけの欲望ではなくなってきます。もちろん、そういう心境に到達するには長い時間が必要かもしれませんが、法華経の信仰はそこを目指しているのです。そして必ずそこに至ることができる。そうやって、それまでの人生で感じることができなかった自分に出会えたとき、おそらく先ほどの「老いて学べば、死して朽ちず」の意味がわかると思います。歳をとる喜びとは、それに気づくことができることではないでしょうか。

ですから、枯れた老人になってはダメですよ。中国の古典、『老子』や『荘子』には、社会とのかかわりを避けて隠者として生きる老人の姿が理想像として描かれています。この老荘思想と仏教とは一見似ているようで、実はまったく違うものなのです。

法華三部経の一つに観普賢経というお経がありますが、その中に「不断(ふだん)煩悩(ぼんのう)、不離(ふり)五欲(ごよく)(煩悩を断たず、五欲を離れず)」という言葉があります。五欲というのは食欲、睡眠欲、性欲、名誉欲、財欲といった、人間の基本的な欲望です。これをまったくなくしてしまうことなどできません。野口英世は名誉欲が強かったと言われますが、それ以上に、人を救いたいという熱意が人の何倍も強かったのでしょう。だからあれだけの仕事ができたのです。生きている限り欲はあっていいのです。ただ、その欲望が暴れ回らないようコントロールする、欲をぎらつかせない生き方、何をやっても正しいところに戻るというルールを持った生き方ができたら素敵ですね。
●いい老い方を後輩に示す気概を
―― 最近は老後に関するいい話題が少ないので、やるせない気持ちですね。メディアは保険やら介護施設の広告を繰り返し、リゾート物件を買え買えなどと、お年寄りのお財布を狙う業者も跋扈(ばっこ)しています。自分はしっかりしているつもりでも、やはり不安になりますね。
泰永

しかし、人生、逃げてばかりはいられませんからね。現役を引退したといっても、社会の中で生きていることに変わりはありません。だからこそ信仰を持ちなさいと勧めるのです。浄風会の信仰は、社会生活のただ中で信仰を活かしていこうというものです。

一般に「信」とは「疑わない」という意味で使われますが、本来の意味はひとたび口にしたら、そのことばは「まこと」だということです。他人がどう思うかという以前の、その人自身の、主体的な心の決意です。信仰の「信」とはそういう「信」です。

さらに言えば、自分や自分の周りだけ平穏であればいいという教えでもないのです。むしろ、この世の中の灯りとなり、人々に幸せをもたらす、その一端を担うことに生き甲斐を感じ、それを誇りに思える生き方を教えているのです。若いころは仕事だお金だと言ってやっきになる人が多いでしょう。理想の人生がつかめない、見えてこない。これも仕方がないことかもしれません。しかし人生の先輩であるシルバー世代が、もし自分のことだけで汲々(きゅうきゅう)としていたら、若い人たちはどう思うでしょう。厳しい仕事、疲れる人間関係の先に待っているのはさらに悲惨な老後だというのでは、あまりにも悲しいですよね。厳しくても、逃げたくても、ぴしっと背筋を伸ばして、先輩たちは老いの模範を示さなくてはなりません。仏様の教えは一切衆生を救おうというものです。それはつまり、人間の心を変えなくちゃだめですよ、ということなんです。これは壮大な理想であり実践論でもあるのです。こういう教えを背骨に持ってこつこつとまことに生きる。こういう生き方こそ、老いてなお輝く、堂々とした生き様だとは思いませんか。もちろん私も、そういう気持ちで、どんなときでも前向きに生きていく覚悟です。
―― 本日はありがとうございました。
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