何かの折に肉体の衰えにガッカリしてしまって、一気に気力や知力まで衰えてしまう人は少なくないと思います。ある程度の年齢になると肉体の衰えの先に、漠然とではあっても、「死」が現実のものとして見えてくる。そのとたんに、死ねば終わりなんだと思ってしまう。そうなると生きていること自体に希望が持てなくなる。生活に張りもなくなって、気力もガクッと落ちてしまう。周りから見ると老け込んだと見えるでしょうね。
新緑の季節になりますと、草木の若葉が匂うのを感じます。瑞々しい緑の匂いに命の輝きを感じますね。一方で、秋の紅葉もまた美しいものです。紅葉は枯れる寸前の葉です。シャンソンに「枯葉」という名曲がありますが、フランス語で「枯葉」は直訳すれば「死んだ葉」となるそうです。哀しい訳ですね。
ところが、日本人は古来、秋の紅葉の美しさを愛(め)でてきました。それというのも、秋になって紅葉が深まり、やがて冬を迎えることにもの悲しさを感じながらも、また来年の春には、若葉が萌えだして花が咲くということがわかっている。春夏秋冬は、春に始まって冬で終わるのではなく、冬の次には必ずまた春がやって来るのです。そういう季節の循環を知っているからこそ、紅葉を美しいと感じられるのです。
幕末に活躍した儒学者・佐藤一斎(一七七二〜一八五九)という人が面白いことを言っているのでちょっとご紹介しましょう。 「少くして学べば、壮にして為すあり。壮にして学べば、老いて衰へず。老いて学べば、死して朽ちず」(『言志晩録』より) 初めの二つは、わかりやすいですよね。子どものころに勉強しておけば大人になってから仕事やなにかにそれを活かすことができる。大人になってから勉強すれば、老いても衰えない。なるほどそうだろうな、と納得します。
けれども、最後の「老いて学べば、死して朽ちず」というのはどうでしょうか。老いてからも学べば、死んでも朽ちることがない、というのですが、いったい何が朽ちないのでしょうか。はたして、佐藤一斎はどういうつもりでこの言葉を残したのだろうか?と考えるとなかなか味わい深いものがあります。いや、それがどういう意味であれ、老いてもなお学ぶという気概はぜひ真似をしたいところです。
人は独りでだけで生きているのはなく、ほかの人たちと支えあっています。そのことを深く実感し、さらにもっと大きなものの中で自分というものが生かされているんだと真に思えたとき、欲望は自分のためだけの欲望ではなくなってきます。もちろん、そういう心境に到達するには長い時間が必要かもしれませんが、法華経の信仰はそこを目指しているのです。そして必ずそこに至ることができる。そうやって、それまでの人生で感じることができなかった自分に出会えたとき、おそらく先ほどの「老いて学べば、死して朽ちず」の意味がわかると思います。歳をとる喜びとは、それに気づくことができることではないでしょうか。
ですから、枯れた老人になってはダメですよ。中国の古典、『老子』や『荘子』には、社会とのかかわりを避けて隠者として生きる老人の姿が理想像として描かれています。この老荘思想と仏教とは一見似ているようで、実はまったく違うものなのです。
しかし、人生、逃げてばかりはいられませんからね。現役を引退したといっても、社会の中で生きていることに変わりはありません。だからこそ信仰を持ちなさいと勧めるのです。浄風会の信仰は、社会生活のただ中で信仰を活かしていこうというものです。
一般に「信」とは「疑わない」という意味で使われますが、本来の意味はひとたび口にしたら、そのことばは「まこと」だということです。他人がどう思うかという以前の、その人自身の、主体的な心の決意です。信仰の「信」とはそういう「信」です。