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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 暮らしの中に信仰を/第5回 主体性を確立して人生の風雨に立ち向かう
泰永二郎会長の言葉
暮らしの中に信仰を
第5回 主体性を確立して人生の風雨に立ち向かう
●秋に思うこと
―― 食欲の秋、読書の秋、芸術の秋、スポーツの秋、いろいろと楽しみの多い季節になりました。今回は人生をより充実して生きるにはどうすればよいか、についてうかがいたいと思います。
泰永 確かに秋は楽しみの多い季節ですね。気温も程よくなり、夜も長くなりますから、みなさんの中にも、何かを始めようと思っている方がいらっしゃるでしょう。秋というのは、一年の中での秋ばかりではありません。長い人生の中にも秋はあります。人生の秋とは、勤め人であれば定年を迎える頃であり、自分の生き方をあらためて振り返る時期でもあります。もちろん立場によって、そのありようはさまざまでしょう。写真や旅行など、いままであたためていた趣味を、たとえば夫婦でやってみたいという人もいれば、蓄えもなくそんな余裕はないという人もいるでしょう。まだまだ働かなくてはならないのに働く先がないと、悩みになやんでいるという人もいますね。いままで無理をしていたせいか健康面に不安がある、という場合もあるでしょう。人生の秋はいままで思いもしなかったことを意識させられます。
―― 若い頃はわからなかったことを実感することが多いですね。
泰永 そうですね。懸命に生きてきて、苦労と達成を繰り返してきた自分を見直してみると、人生の深さを改めて感じるわけですね。そしてまた新しい課題も生まれてくると思います。読者の中にはご自身で事業をされている方も多いと思います。いままで何十年もやってきて、世代交代期になる。うまく橋渡しができればいいのですが、いまの産業構造の変化はとても早いですから、いままでのビジネスのしくみが通用しなくなる時機が来る。そうなると、いわば老体にむち打って、また新たな事業を作っていかなくてはなりません。傍目で見れば「うまくやっているな」という人でも、かなり辛い思いをして頑張っているのが実情でしょう。並大抵の苦労ではないと思います。また、仕事に打ち込みすぎて、さて定年・引退となると、努力するテーマがなくなって燃え尽きてしまって、今度は生きる意味を喪失するというケースもあるでしょうね。例えば、こんな人がいます。定年後の楽しみのために何か趣味をもたなければ、と俳句に短歌、囲碁に将棋、ゴルフに釣り等々とあれこれ嗜んでみたものの、どれも自分にしっくりくるものがなかった。何か、自分の人生がとても虚しいものに思える、というのです。いわば人間の生きる意味に対する根本的な不安でしょうか。ニヒリズムに陥る場合もあります。いずれにしても人生の秋は決していいことばかりではなさそうです。いままで見えなかった自分に直面するわけですからね。
―― 自分が何をしたいか分からないというのは、特に青年層に多い悩みですが、いまでは世代を越えて見られるようです。「自分探し」という言葉がありますね。
泰永 自分とはいまここにいる自分自身をおいて他にないのに、どこか別のところに本来あるべき自分があると思ってしまう。その溝がどうしても埋まらない感覚ですね。これも辛いでしょう。また流行している考えに「ポジティブシンキング」というものがあります。どんなに辛くても、くよくよ悩んでいても、とにかくポジティブ(積極的・肯定的)に考えるようにセルフコントロールするのです。前に「脳内革命」という本がベストセラーになりましたが、いまは仕事や人生のストレスなどでかなり疲れてしまっている人が多く、これを反映してか「前向きになる本」「やる気が起こる本」など、ポジティブシンキングに関する本がどんどん出ています。とにかくポジティブに前向きにしてさえいれば、そのうちに悩みがなくなっていくというのですが、そこにどれだけの哲理、普遍的な考えがあるのでしょうか。とにかく前向きことを優先するあまり、自分が一生を通して追い求めていく課題と、それを乗り越えたときに感じられる人生の本当の喜びから目をそらしてしまうということがありはしないかと、少し心配になります。自分探しといい、ポジティブシンキングといい、一概に否定するつもりはありませんが、結局がむしゃらに頑張っているうちに、無理をしてしまうのではないかと、そういうことも心配ですね。中には鬱(うつ)などになって体調を崩してしまう方もいる。実際、私はそういう人を何人も見ています。
●止まるを知りて、のちに定まるあり
泰永 ところで、中国の『四書五経』といわれる古典の一つに『大学』という書物がありますが、その冒頭の一節に次のような言葉が出てきます。
「止まるを知りて、のち定まるあり」
人間は止まるところを知ってこそ、自らの主体性が定まる、と言う意味です。主体性というと、エゴイズムだって主体性じゃないかと勘違いする人もいますが、人生における揺るぎない確固たる基盤、ということです。『大学』の言葉は、止まるを知れば、すなわち自らが本来あるべきところを知れば、揺るぎない人生の基盤を得られるということです。人生の不幸はエゴ、つまり自我心への執着から始まります。自我心とは、周囲はともかく自分だけはよくなりたいという、ほとんど人間の本能ともいえる心理です。これに振り回されると必ず周囲との間に摩擦が生じ、それが苦しみを生むのです。ところが、自我の強い人は、これを乗り越えようとしてもっと強い自我を動員するから、苦はさらに増していくことになる。これが苦しみのスパイラル、どこまでも続く負の連鎖です。
では、私たちが止まるべき本来あるべきところとはどういうところなのでしょうか。『大学』はこれをひと口に「至善」といっていますが、それ以上の具体的なことは何も書かれていません。その自らの本来あるべきところを明らかにしたのが、実は「法華経」なのです。
「法華経」の説く信仰は、信ずればなんでも楽になる、という安易なものではありません。信仰とは、真摯に真剣に自分と向き合うということに他ならないのです。自我への執着を止めて本来のあるべき自分に目覚めることです。自分の課題から逃げない。自我の先にある自分の根本的な人生の意味を知る。それはときには辛く苦しいこともあるでしょう。けれども、自分と向き合うことから逃げてしまっては何の解決にもなりません。苦しみから目を背けても、苦しみの原因はなくならないのです。
●エゴイズムと主体性
―― エゴイズムと主体性の違いがちょっとわかりにくく感じます。欲望をもってはいけないということでしょうか。
泰永 欲望は人間が生きている限り自然なものです。お腹が空けば何か食べたいと思う、くたびれれば眠りたいと思う、これは当たり前のことです。欲望がなければ生きていけません。それだけではなく、美しいものに憧れる気持ち、より深い真理を知りたいという思い、自分の力をより高めたいという願い、どれもみな欲望です。いや、他人のために役立ちたいと思うことだって欲望なのです。ですから、欲望を否定してしまったら話になりません。ただ、その欲望が糸の切れた凧のようになってはいけないということです。自分の人生は自分で決める、自分で生きるんだと思っている人もおられると思いますが、私たちは誰一人としてほかの人とかかわることなしには生きていけないんです。本来はみな密接に関わりあって人間社会をつくっている、そこに気づくことが大切ですね。
もしも、自分一人だけが幸せだとしたらどうでしょう。決して楽しくはないと思います。楽しさよりも孤独感のほうが強のではないでしょうか。人には誰にでも個性と輝きがあるはずです。自分自身もが輝き、同時に周囲の人もそれぞれの個性を生かして輝く。そういう社会が実現したら素晴らしいと思います。現代で言えば環境との調和も大切なことです。どんな小さなことでも、そういうように周囲の人たちと喜びを分かち合えると、自分だけでは感じることが出来なかった、一つ上の幸福感を得ることができるでしょう。人が人として幸福になるというのは、単に自分ひとりがうまくゆけばいいということではないんですよ。繰り返しますが、自分も、他人も、生きる環境もよくしていくこと、またそういうネットワークを広げていくことの中に真の人生の意味があり、深いよろこびがあるのです。
●日本国に第一に富者、日蓮なるべし
泰永 日蓮聖人は一二七一年、幕府の弾圧によって佐渡に流罪とされました。ひとたび流されたら生きて帰ったものはいないという、しかも厳寒の佐渡です。北国の冬はくる日も来る日も雪が降り続き、肌を刺す寒風は絶えることがなかったといわれます。そのうえ食べる物といっても、与えられたわずかの干し飯があるだけで、不自由この上ない毎日でした。隙あらば亡き者にしようとねらう人々も一人や二人ではありませんでした。そんな逆境の中で著された『開目鈔(かいもくしょう)』の一節にこうあります。 「当世、日本国に第一に富者(とめるもの)、日蓮なるべし」
――いま、この日本で、私が一番豊かだ、と。
よく「心頭滅却すれば火もまた涼し」などと言いますが、いくら心を静めても熱いものは熱い、それが現実です。熱いものを熱くない、幸不幸も気の持ちようだと言うのは、強がりか、さもなければ自分を誤魔化(ごまか)しているかのどちらかでしょう。
日蓮聖人が「日本国に第一に富者、日蓮なるべし」と言われたのは、強がりでも誤魔化しでもありません。ご自身の置かれた状況がどういうものであるのか、厳しい現実を冷静に客観的に認識していたのです。それでも、「なんと幸せなのだろう」と心の底から喜びが湧き上がってきたのです。それは、「法華経」に説かれている弘教者の使命をいま自分が果たしている、という使命感、充実感が、現実の苦痛よりはるかにまさっていたからです。
それは決して、苦しいものを苦しくないと思いこむということではありません。現実の喜怒哀楽、幸不幸を否定してもどうなるものでもないのです。辛いことは辛いし楽しいことは楽しい、不味いものは不味いし美味いものは美味い、苦しいものは苦しいのです。けれども、揺るぎない使命感、充実感、自分が人生をかけて追い求めていく自分なりの主体的な生き方があれば、どんなときでも自分を支えられるし、どんな苦境をも乗り越えられるのです。
―― その使命感、充実感はどこから来るのでしょう。
泰永 それが信仰なのです。日蓮聖人は「法華経」に自らが本来あるべきところを見出し、そこに揺るぎない確固たる主体性を確立したのです。喩えて言えば、地中にしっかりと根っこを張ったということです。これは日蓮聖人だけが特別なのではありません。私たちだって、信仰に根ざした主体性を確立できるのです。
どんなに枝葉が立派でも地面にしっかり根っこをおろしていないと木は倒れてしまいます。人生は風雨にさらされることの連続です。人間という木はその中でいつもまっすぐ立っているわけではありません。強い風に葉を吹き散らされ、幹も大きく揺らぐことだってあります。むしろ、揺らがなければポキンと折れてしまいますから風に揺らいで当然なのです。悲しみの涙に暮れることもあれば、お金に困って苦労することもある、病気で寝込むこともあるでしょう。人生は考えてみれば辛いことだらけです。そうしたときに問題から目を背けたり、強がりを言ったりしてもなんの解決にもなりません。心の根っこさえしっかりしていれば苦難にも耐えられるし、頑張れるのです。
充実した人生を送るには、何よりもまず、この心の根っこをしっかりと確立すること、自らが止まるべきところを知ることから始まるのです。
―― 本日はありがとうございました。
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