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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 暮らしの中に信仰を/第6回 回向とは、自分が正しく生きること
泰永二郎会長の言葉
暮らしの中に信仰を
第6回 回向とは、自分が正しく生きること
最近では葬式をしない、散骨するなど、「死者との別れ」の形が多様化しています。
今回は「死者との対話」を通じて、自分の生き様を省みるという、浄風会ならではの葬送論を泰永会長にお聞きしたいと思います。
●お葬式の意味を考えていますか?
―― 「暮らしの中に信仰を」をテーマにいろいろなお話をうかがって参りましたが、やはり一般的には、仏教というと葬式、というイメージが強いように思います。
泰永 生活の中で大きな儀礼というものは「冠婚葬祭」と一口に言いますが、それぞれ性格が違うものです。「冠」は成人式、「婚」は結婚式で、これは生きている人のための儀式です。対して「葬」は葬式、「祭」は先祖の祀りですから、これは死んだ人が相手です。
この冠婚葬祭のうち「葬」、つまり葬式だけは他と違って特別です。こればかりは予定が立たないのですから。結婚式なら都合のいい日を選んで、式場を予約し案内状を出して、というように計画的に準備することはできますが、葬儀の場合はこうはいきません。家族のどなたかが亡くなって、そのとき初めて葬儀はどうしようかと考えるという方が大半ではないでしょうか。そして、お坊さんを呼んでお経をあげてもらわなければならないが、どこからどうやって呼べばいいのか、葬儀はどうすればいいのか、ほとんどパニック状態になると思います。そして、結局は、葬儀業者の言うがままに、一通りの形だけは整えて一連の式典を終えるという場合が多いかもしれませんね。
―― 最近は、そうした通俗的な形式に対する疑問からか、家族だけのお葬式や友人葬、音楽葬などの無宗教のお葬式とか、お墓を作らずに散骨したりすることも増えていますね。
泰永 もともと葬儀というのは、国や文化によっていろいろなかたちがあったのです。今でこそ日本では火葬が一般的ですが、以前は土葬のほうが多かった。国によっては、鳥に食べさせる鳥葬とか、風に晒して朽ちさせる風葬が行われていたこともありました。また、仏教式のお葬式も江戸時代になってから広まったようで、仏教全体の歴史から見ればそんなに古いものではありません。
ですから、社会の良識の範囲内であれば、細かい形式にこだわる必要はないだろうと思います。大切なことは、お葬式とはどのようなものか、何のためにするのか、そういうことについてしっかりした考え、つまりは死生観を持っているかどうかということです。それが定まっていれば、そこから自ずと死者を送るのにふさわしい葬儀のあり方というものが見えてくるものです。日頃から、こうしたことについて考えておきたいですね。
●曖昧な死生観
―― 死生観というものをあらためて問われると、自信がないのですが……。
泰永 そうですね。そういえば、ある人が墓参りをしてお祈りしてきたと言うので、「どんなことを祈ったのですか」と尋ねたことがあります。すると、亡くなったご先祖様に自分たちを守ってくれるようお祈りしたと言うのです。お墓参りなどの先祖回向というのは、亡くなったご先祖の向うの世界での幸せを祈ることが本来なのですが、生きている自分たちの幸せを祈ると言うのですから、これにはずいぶんと違和感を感じたものでした。あるいはまた、先祖回向をしないとたたりがあると思っている人もいます。これらは、人は死んだら何か特別の力をもつ存在になると、なんとなく思っているのでしょうね。そういう力を持った存在を神といったり仏と呼んだりして、一般的には神仏の概念というのはその程度なのだと思います。
また、最近よく耳にする言い方に「天国の〇〇さん」というのがあります。「天国」といえばこれはキリスト教の表現で、堅信な信者が死後に召される世界のことですが、こういう言い方が普通に使われることにも違和感を覚えますね。
―― そうした曖昧な死生観の何が問題となるのでしょうか。
泰永 死んだ人が何かの力を行使して生きている私たちを守ったり、あるいは願いごとをかなえてくれると信じるのは、そう考えたほうが自分たちにとって都合がいいからでしょう。死者も幸せで、自分たちもその恩恵を受けるのですから。しかし生きているこちら側の私たちが「そうあってほしい」と考えたとしても、「そうだ」という保証は何もありません。勝手な自己満足に過ぎないのです。
しばらく前に「千の風になって」という歌が流行りました。「私のお墓の前で泣かないでください」という歌詞で始まり、私は眠ってなんかいません、千の風になって生きているあなたをあらゆる場面で見守っています、と歌うのですが、これは死んだ人が生きている自分に語っている形ですね。もちろん死者が語れるわけはないので、生きている人が死者の想いを想像しているのです。しかし、これもやはり「そうあってほしい」という、あくまでも願望に過ぎません。そして、こういう歌が多くの人に受け入れられたことの背後には、身近な人の死を正面から受け止めることができない現代人の危うさが見え隠れしているように思います。死の現実から目を逸らし、気持ちいい歌詞で自らの心を偽り慰めているだけなのです。亡くなった人に対する執着といってもいいと思います。
●ほどほどに死者と付き合う知恵
―― そうすると、お葬式や法要で死者を悼む、偲ぶということも執着のあらわれということになるのでしょうか。
泰永 お葬式の形式に細かくこだわる必要はないと言いましたが、それはお葬式という儀式が必要ないということではありません。やはり、死者との決別を形にあらわして、あの人は亡くなったのだ、もう私たちとは住む世界が違うのだということをしっかりと胸に刻むためには、お葬式という儀式はとても重要な役割を果たします。
家族や友人などの親しい人が亡くなれば、そのことを悲しむのは人間の自然な感情です。けれども、その感情にいつまでもとらわれていては、生きている者は前へ進めません。また、死んだ人をいつまでも生きている者のように扱うこともできません。そこでお葬式を行うわけですが、お葬式には死者と生者のけじめをはっきりと付ける、死んだ人と生きている人とは住む世界が違うのだということをみんなで確認し合う、そういう意味があるのです。つまり、葬儀とは死者との決別の儀式で、これを境にして生きている者は再び通常の生活に戻ることができるのです。決別の儀式といっても、悲しいだけの別れではありません。送別会、壮行会のように、向こうに行ってもどうかお幸せに、と死者を励まし送り出す儀式でもあります。
先ほど、世界にはいろいろな形式の葬儀があると言いましたが、決別の儀式という点ではみな共通しているように思います。火葬、土葬、鳥葬、風葬、あるいは散骨といった死者のさまざまな葬り方は、いずれも生きている者の生活圏から死者の遺体を遠ざける営みです。そうすることで、死者と生者の世界が違うことを形の上でもはっきりとさせて、生きている者はまた明日の生活へと踏み出していけるのです。
そう考えてみると、墓参や法要の習慣はよくできているものだと感じます。お墓は、たいていの場合、生活圏から離れたところに設けられています。家の庭にお墓があるということはまれでしょう。亡くなってしばらくの間は香華の絶えない時期もあるでしょうが、いつまでも毎日通い詰めているわけにはいきません。そこで、お盆やお彼岸などの時期に墓参をするということになったのでしょう。
法要の回数というのもまた上手くできています。一週忌、三回忌、七回忌、一三回忌……と、だんだん間隔が広がっていきます。これが毎年の行事ではなかなか執着から抜け出せないか、逆に形式に流れて心のこもらないものになってしまうかもしれません。かといって、あまり間が開きすぎても、すっかり忘れてしまうということにもなりかねません。現在の年忌のあり方は、故人を忘れるようで忘れない、忘れないけれども悲しみを引きずらない、そういう絶妙のバランス感覚が働いているように思われます。いずれも、ほどほどに死者と付き合うことができる知恵が込められているのです。
●響きあう「回向の心」
―― お葬式が決別の儀式だとすると、墓参や年回忌などの法要にはどういう意味があるのでしょうか。
泰永 決別の儀式といっても、お葬式が終わりました、では死んだ人のことはきれいさっぱり忘れます、ということにはなりません。折にふれ、故人を追慕し追悼するということは人間の情として当然のことです。それが親子・夫婦・兄弟姉妹であればなおのこと、縁あって家族となった者同士の絆は大切にしなければなりません。それは相手が死んで幽明境を異にしても同じことです。私たちがいま生きているということは、親をはじめ多くの先祖のおかげだということは言うまでもありません。そればかりか深い因縁をも引き継いでいるのです。そこで、故人の後生を祈る意味で墓参や法要などを営むのです。決して自分のために何かしてくれという願いごとのためではありません。
葬儀はもちろん、法要も墓参も併せて先祖回向といいますが、回向とは「回らし向ける」ということです。では何を回らし向けるのかと言えば、生きている私たちが仏道修行を行って積んだ功徳を、あの世の死者に回らし向けるということです。これを「追善」ともいいます。それによって生前の善行はさらに大きく膨らみ、悪行の罪は軽減され、トータルとしてプラスの評価が下されてそれが後生の安穏につながっていくというわけです。
回向の効果はそればかりではありません。故人に向けられたはずの功徳が、巡りめぐって自分にも同じように帰ってくるのです。だから先祖回向は自分のためにも大切なことで、私はこれを「回向はエコー(echo=こだま)」だと説明しています。
回向という行為を考えてみるとおもしろいですね。私たちは故人の死を悼み、故人の後生によかれと思って回向、つまり仏事を行ないます。それは見方を変えれば、故人が私たちに仏事をさせたと見ることができる。功徳を積む機会を故人が与えてくれたというわけです。ですから、死ぬこと自体が、残された家族や友人に功徳を積む機会を与える尊い行為でもあるのです。響きあうこだまが行っては帰るように、死者と生者の間で信仰への励ましが往復する、そこに先祖回向の大きな意義があるのです。
―― 最近は寺院に永代供養を依頼することも行われているようです。
泰永 これまでお話してきた回向の意義については、大前提があるということを申し上げておかなければなりません。その大前提とは、本物の仏教に基づく正しい回向による、ということです。回向なら何でもいいというわけではありません。ですから、ここでは他宗や他教団による回向では本当の回向にはならないとだけ申し上げておきます。再度申し上げますが、回向とは亡くなった人への追善であり、同時に生きていく私たち自身が自分の人生を前向きに生き抜くことを故人に誓うことでもあります。
私たちの浄風会は、在家の信仰だからこそ本当に心のこもった回向ができると、これは胸を張って申し上げることができます。また、当会は各地に納骨堂を有し、春秋の彼岸法要やお盆の合同法要なども営まれます。家庭における日々の回向と節目々々の式典を通して、私たち自身の生きる意味をしっかりと確認して前向きに生きる。それが私たち浄風会信者ならではの人生論なのです。
―― 本日はありがとうございました。
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