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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 浄風エッセイ/第1回 山の奥を尋ね究めた先の平凡な暮らし

泰永二郎会長の言葉

 

浄風エッセイ

第1回 山の奥を尋ね究めた先の平凡な暮らし

 本を読んでいると、心に響いて印象に残る文章、いいなあと思う言葉に出会うことは、たくさんあります。
 しかし、心にずっと残っていて、忘れられないひとことというと、どれがそんな言葉だろうかと、考え込んでしまいます。たくさんあるようでいて、一言一句正確にはっきりと覚えているというのは、私の場合それほど多くはありません。
 それはインパクトがいま一つだったのか、あるいは単なる記憶力の問題なのか。いずれにしても、本を読む度に出会う数々の言葉が、その都度私の心を揺さぶったことは確かですが、だからといって、いつまでも心に焼き付いているかというと、必ずしもそうではなかったのです。
 そんなことを考えていると、子供のころの父のひとことが、その後の私の中でずっと活きていることに気がつきました。これから小学校に入るという幼かった私に、父はこう言ったのです。「学校へ行ったら、先生とにらめっこしろ」と。これはもちろん、直接的には先生の話しを真剣に聴きなさいということですが、後になって考えてみれば、未熟な人間が人からものを教わるときにはすべてを素直に受け入れる謙虚な姿勢が大事だ、という意味が込められていたと思います。
 この父の言葉は、還暦も近づいたいまの年齢になるまでずっと忘れずに、いまも活きているのです。

 

 本で出会った忘れ得ぬひとことといえば、やはりこの歌を挙げなければなりません。

 なかなかになお里近くなりにけり あまりに山の奥をたずねて

 これは、室町時代の日隆上人(法華宗再興の人・八品派祖)の教義書の中に引用されていた「古歌」で、私はそのとき二十歳をいくらか過ぎたころでした。ある深奥の教義を専門的に解説した後にこの歌が添えられていたのですが、これを見たとたんに「あっ」と気付いたのです。「この歌は、初めてではない。何かで読んだことがある」と。そして、それが何であるかすぐに思い出しました。
 それは、中学生のときに読んだ吉川英治の『宮本武蔵』の中に出てきた歌で、早速確かめてみたところ、まさにその通りでした。ほとんど忘れていたと思っていた歌が、記憶の底から蘇ってきたのです。
 吉川英治がどこからこの歌を持ってきたか分かりませんが、「古歌」といいますからいわゆる詠み人知らずで、巷間知られていたものでしょう。これが『宮本武蔵』に使われていたことについて、以前『輝く智慧に照らされて』というエッセイ集に、名人と達人の違いを語るものとしてこう書きました。
 「名人のうちはいかにも強そうだ、優れている、と誰もが思いますが、その道をさらにきわめて達人の境地に達すると、一見した限りでは誰が見ても平凡な人間にしか見えないものです。それこそが達人の境地に達した、あるいは近づいた武蔵の姿だと、吉川英治は言おうとしたのだと思います」
 少年時代からどちらかといえば地味で控えめな生き方を好んでいた私に、この武蔵の目指した心境が、おそらく想像以上の強いインパクトを与えたのだと思います。もちろんおぼろげにではありますが、山の奥深くを尋ね究めた先にある人里の平凡な暮らしというものに、自分自身の生き方の理想形を見た、ということでしょうか。だからこそ、この歌が心の片隅にしっかりと刻み込まれていたのだと思います。

 

 ところで、日隆上人の教義書にこの歌を見つけたそのころの私は、お題目の信仰の裏付けとしての教義におもしろさを覚え始めたころでした。ですから、この歌が引用された教義的な意味もそれなりに理解することが出来たのですが、その後信仰生活を積み重ねるにつれ、教義の解説のみならず、実は私たちの信仰のあらゆる場面にこの歌の心が活きているということに気付かされたのです。
 例えば、日蓮聖人以来の布教形態にそれが現れています。仏教寺院にはたいてい山号というものが冠されていますが、これは多くの寺が人里離れた山奥にあったことに由来します。つまり仏教というものは、あくまでも世俗から超然とした存在でした。そういう時代にあって、日蓮聖人は自ら往来に立って人々に語りかけたのです。いわゆる「辻説法」です。
 先述の日隆上人も、あの「本能寺の変」で有名な本能寺をはじめとして、布教の拠点としての寺を京都の街中に構えました。それ以降どんな時代にあっても、人々の目線に立ち、暮らしの中に信仰を活かそうという姿勢は、伝統的に生きているのです。これはまさに、山の奥深くを尋ね究めた先の人里、ということでしょう。
私たちの浄風会の標榜する在家信行もまた、これとまったく同じ線上にあります。
 平凡な人間が平凡な生き方をしながら、法華経をたもつ。その人は、しかし決してただの平凡人ではなく、たもつ法華経の偉大さゆえに、知らず知らずのうちに山の奥を究めた偉大なる平凡人になっている。
法華経の信仰とは、そういう信仰なのです。

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