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トップページ泰永二郎会長の言葉 > 浄風エッセイ/第3回 生命の尊さを感じるとき

泰永二郎会長の言葉

 

浄風エッセイ

第3回 生命の尊さを感じるとき

 五月のはじめから六月の梅雨入りくらいまでは、一年のなかで最も華やかな時期かもしれません。
 杜若(カキツバタ)や芍薬(シャクヤク)、皐月(サツキ)、そして紫陽花(アジサイ)と、次々に美しい花が咲いては移ろっていく季節だからです。
 そして、私たちは知っています。こんな生命にあふれた時期の次には、長い梅雨がやって来ることを。
 梅雨が来るのを知っているなどと当たり前のことを言うようですが、考えてみればそんな芸当ができるのは、おそらく人間だけです。ほかの動物には、雨季が近づいたことを感じ取ることができたとしても、梅雨がやってくることをずっと以前から知っている、などということはありません。
 そして人は、そういう季節の移ろいを知っているからこそ、花の美しさをよりいっそう感じ取ることができるのです。美しく咲き誇った花も、やがてはしぼみ朽ち果てます。だからこそ、その生命に満ちた一瞬の輝きに心が動かされるのです。これは、人間だけが感じ得る生命の尊さだと思います。
 ***
 人の「いのち」にも同じことが言えるでしょう。
 どんな人も、いつか必ず「死」を迎えます。
 「死」の話など縁起でもない、と思うかもしれません。しかし、「生」と「死」を切り離して、それぞれ別のものとして考えたところで、あまり意味がありません。一日一日、一年一年と積み重ねた「生」の、最後の一点が「死」です。ですから、「死」を考えることはすなわち「生」を考えることにほかなりません。いや、「死」を度外視しては、本当の意味で人生は語れないのではないでしょうか。ちょうど、はかない一瞬の花の美しさが、私たちの胸に迫ってくるように。
 ここで、エピソードを一つお話しましょう。
古代インドを統一したアショカ王は、熱心な仏教徒としてその興隆に大いに尽力した人でした。ところが、王の弟はまったく信仰心がなく、王はそのことに心を痛めていました。そしてあるとき、王は弟を目覚めさせようと、一つの企てを思いつきます。
 ある日、王が数少ないお供に守られて旅に出ます。すると、重臣の一人が王の弟に耳打ちするのです。「いまが、王におなりになる絶好のチャンスです」と。
王弟は思ってもみなかった謀反の陰謀を耳にして驚きました。しかし同時に、その重臣の示した計画がいかにも成功しそうに思え、自分が王になれるかもしれない、と心が動きます。そしてとうとう、謀反に同調した家臣や兵を前にクーデターを宣言しますが、なぜか王弟は兵たちに捕らえられてしまいます。
 そこへ王が帰国し、御前に引き出された王弟に対して容赦ない宣告をします。
「わしの留守中に謀反を企むとは許しがたい。よって斬首の刑に処す。ただし、それほどまでに王になりたいのなら、首を切る前に七日間だけおまえを王にしてやろう!」
 王弟は美女に囲まれ豪華な料理や酒を前に、歓の限りを尽くしますが、夕刻になると窓の外の首切り役人が鈴を鳴らして「一日経ったぞ! あと六日だぞ!」と高らかに声を挙げるので、いっぺんに酔いが醒めてしまいます。翌日もまた飲めや歌えで一日を過ごし、夕刻になると、首切り役人の鈴が鳴って「あと五日!」と。
 三日、四日、五日……、七日間はあっという間でした。そして国王の御前に引き出された王弟に、兄の国王が問いかけます。
 「どうじゃ、七日間は楽しかったか?」
 「とんでもありません。あと何日で首を切られるかと思えば、とても生きた心地がしません。美味いものや美女など、どうでもよくなってしまいました」
 「それを無常というのだ。七日だろうが、七十年の後だろうが同じこと。人は必ず死ぬ。そう思えば、いたずらに快楽を求めてばかりはいられないだろう」
 こうして弟は、熱心な仏教徒になったといいます。
 ***
 この物語が語っていることは、人がよく生きるには、必ず迎えるであろう「死」に思いをいたし、そのことをしっかりと受け止めておくことが大切だということです。
 ところが、自分の死について考えるということは決して容易ではありません。「死」は、誰も経験したことがないからです。経験者から話を聞けるというものではなく、もちろん書物で調べてもわかるはずもありません。
 近年、議論の対象となっているものに「脳死」があります。医学の進展によって、脳が死んでいても、心臓が動き呼吸もしているというような状態が生じることになったのです。この「脳死」が人の「死」なのかどうかという点が議論の対象になっているわけですが、このような問題を考えることが、「死」について考えるということではありません。
 これは、生きている人びとが「生」と「死」の境目をどう決めるかという問題、つまるところ法律問題なのです。
 人は、生きている間は多くの人とともに生きていますが、死んでいくときはたった一人で死んでいくのです。まだ足を踏み入れたことのない未知の「死」について、結局は一人一人が自ら思いを馳せるしかありません。
「死」を思うことは、不安なことかもしれません。しかし、不安であっても、そのことを思うことが、一日一日を大切に生きる心を養うのです。
 そして最後にもう一つ、仏教によればその「死」の不安を根底から解消し、大いなる安心を得られる、ということも申し上げておきましょう。そして、その安心をもたらしてくれるのは、篤い信仰の積み重ねである、と。
死後の不安を解消し、大いなる安心を得られたとき、真に充実した人生が開けるのです。

日蓮幼少の時より仏法を学び候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。(中略)されば先ず臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし。                                (妙法尼御前御返事)

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