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浄風エッセイ |
苦楽を思い合わせる |
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■夏の思い出
夏も盛りの陽差しを受け、そこここの木々のあたりから放たれる蝉の声を浴びていると、ふと、子どものころのことを思い出すことがあります。
半ズボンにランニングシャツ一枚で、近所の子どもたちと真っ黒になって走り回っていたあのころのことは、空き地の草のむせ返る匂いや子どもたちの甲高い声など、当時の感覚までも伴って蘇ってきます。
思い出は、楽しかったことばかりではありません。ときには、子どもなりに思い悩み、苦しんだこともありました。
宿題ができなくて、追い詰められたように思ってしまう。お遣いの途中でお金を落として、どう弁解しようかと思い悩む。
いろいろありましたが、みな小学校低学年ころの苦い思い出です。友だちの中には、例えば親を亡くしたり、自分自身重い病気で入院したりと、大人でも耐え難いようなできごとに直面した子もいましたが、幸いにも私の場合は、子どもなら多かれ少なかれ誰しも経験するような他愛もないものに限られていました。
それでも、当時の私にしてみれば一つ一つの悩みは深刻で、子ども心に「生きることの辛さ」を実感させられたものです。
そして今になって振り返ってみると、こうした子どものころの悩みや苦しみは、大人になるために欠くことのできない、とても貴重な経験だったといえるのです。
真っ黒になって遊んでいた子どもは、やがて多感な少年期を迎え、さらに悩み多き青年期を経て大人になっていきます。そして成長するに従って、我が身に降りかかる悩みはより深刻になっていきます。
悩みの中身はそれぞれ違っていても、人が生きていく上では、だれもが必ず、一度や二度はそういう深刻な悩みに直面するものです。子供の頃の経験は、そういう苦悩に立ち向かうための、まちがいなくトレーニングになっているといえるでしょう。
■なぜ苦しみなのか?
仏教では、人生における苦しみを「四苦八苦」と説いています。
いまでも、たいへんな苦労を強いられたときなど「〇〇で四苦八苦だよ」などといいますが、本来は仏教から出た言葉です。
はじめの「四苦」は、「生・老・病・死」で、人生における根源的な苦しみを指しています。人はオギャーと生まれ、その瞬間から死に向かって動き出し、そして老い、病に侵され、やがて死を迎える。だれも逃れられないことですが、この四つは人生最大にして最も根本の苦だというわけです。
この四苦に付随して、人が社会生活をするうえで避けて通れない苦があります。「愛別離苦」は、愛する人(物)と別れなければならない苦しみ。「怨憎会苦」は、会いたくない人(物)とも会わなければならない苦しみ。「求不得苦」は、求めても得られない苦しみ。「五陰盛苦」は、心身に受けるさまざまな苦しみ。これらと前の「生・老・病・死」と合わせて「八苦」といいます。
つまり「四苦八苦」は、人生における苦しみの諸相を表した言葉なのです。
しかし、他はともかく、なぜ生まれ出ることが苦しみなのでしょうか。いや、そもそもなぜ「四苦八苦」などということを説いたのでしょうか。
人生には、楽しいことや幸せな気持ちになることもたくさんあるのに、「人生は初めから終わりまで、すべて苦だ」などといわれると、目の前が真っ暗になって、生きる意欲をなくしてしまうかもしれません。
たしかに、人生には楽しいこともたくさんあります。何も、ことさら暗い気持ちで生きていく必要は、さらさらありません。
しかし、どんな人であれ悩みや苦しみのない人生などありません。「四苦八苦」を避けて通ることなど、だれもできないのです。
だから、「先ず、その現実を直視せよ」と、仏教は説くのです。ありのままの現実を直視し、その苦悩を乗り越えて、はじめてほんとうの喜び、揺るぎない幸せ、明るい人生がある。そして、その苦悩を乗り越える道を「仏道」というのです。
現実から目をそらして得る喜びなど、泡沫の虚構に過ぎません。
おもしろいもので、夢が大きければ大きいほど、志が高ければ高いほど、乗り越えるべき壁は大きく高くなるものです。そして、それをしっかりと乗り越えたとき、喜びもひとしおに感じられ、そうやって人は大きく成長していくのです。
そう考えれば、「四苦八苦」も前向きに受け止められるでしょう。
■ほんとうの悦びを得る方法
さきほど、苦悩を乗り越える道を「仏道」という、と述べましたが、日蓮聖人はそれを具体的なかたちで「お題目の信仰」として示されたのです。
その日蓮聖人の時代、四条金吾という堅信な信者がいました。
その四条氏、あるとき信仰問題で主君と対立し、同僚からも白眼視されるような事態に立ち至ったのです。その苦悩を打ち明けられた聖人は、懇切な指導の返書を認められましたが、その結びにある象徴的な一句をご紹介いたしましょう。
ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と唱へ給へ。苦をば苦と悟り楽をば楽と開き、苦楽ともに思ひ合せて南無妙法蓮華経とうち唱へゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。
(四條金吾殿御返事 第十三書)
ひとたびお題目の信仰を人生の柱に据えたなら右往左往することなく、苦も楽もそのまま受け止めればいい。 それが、自受法楽、すなわち根本の幸せというものだ、と。
妻と一緒に酒を飲むかはさておき、そういう揺るぎない生き方をしたいものです。 |
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